説教ノート No.17 2021.1.10
聖書箇所 使徒の働き9章32節~43節
■序 論
ステパノの殉教を機に本格化した迫害によって、キリスト者たちは福音を携えて散って行った。直後、ピリポによるサマリヤ伝道、パウロの回心と歴史的な出来事が続き、教会はさらに異邦世界への宣教を拡大する手がかりを得て行く。1章8節の「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」という御言葉の具体的展開がここにあると言えよう。
■本論1 あらゆる所へ (9:32)
これまでのパウロ回心記から一変して、この段落から使徒ペテロによる巡回伝道の様子が記されている。ペテロがパウロの回心とその後の働きをどの様に受け止めていたかについては記述がないが、彼が大きな驚きを感じたことは確かであろう。しかし、この時点で二人とも自覚はないものの、神の側の計画はペテロがエルサレム教会の指導者としてユダヤ社会に仕え、パウロが異邦人への使徒として世界宣教を担って行くことであった。段落冒頭に「ペテロはあらゆるところを巡回していた」と記されているが、当時のパレスチナを中心にかなりの範囲に福音が伝えられ、信じる聖徒たちの群れが点在していたので、ペテロは彼らの信仰を励ますために各地を巡回し、兄弟姉妹たちを訪問したのである。自らの足で歩く姿に牧会者の魂に対する情熱と愛を教えられる。牧会は魂への配慮である。教会は牧師も信徒も「魂への配慮」を大切にし、行動することを「喜び」としたい。教会共同体「エクレシア」「デアスポラ」の大切な価値観として私たちの心に刻もう。
■本論2 アイネアのいやし (9:33-35)
ペテロはリダを訪れた。この町では中風の床に8年も苦しむアイネアとの出会いがあった。長い病苦との闘いにある彼の心中を想像してみると、捨てきれない生への執着、それ以上に「どうせもう」というあきらめが支配していたのではないか。ぺテロが彼に語ったことは、①いやしの根拠がキリストであること。これはイエス・キリストが真の神、救い主であることを明らかにすることでもある。②信仰による行動の勧め。ペテロが語った「立ち上がりなさい。」「床を整えなさい。(床を払うの意味)」これはアイネヤにとって最も願っていることであるが、最も不可能と確信していたことでもあろう。しかし、信仰は固着したあきらめからの飛翔である。主イエスの御名がこれを可能とするゆえに、私たちは自分自身の足で不治の病の床から、絶望とあきらめの床から、そして、罪の支配と滅びの中から、信仰によって立ち上がらなければならない。そのために主イエスは、信仰を告白する私たちの手を取り、しっかりと立ち上がらせて下さる。
■本論3 タビタ(ドルカス)のよみがえり (9:36-43)
続いてペテロは地中海沿岸の町ヤッファへと足を伸ばした。そこには忠実な主の弟子タビタ(ドルカス)という女性がいたが、不幸にも病死し、まだその葬りも出来ないでいた。彼女の仲間たちが、ペテロが近くのリダに来ていると知って彼を呼びにやったのである。ペテロはタビタの屍の前に立った。死の事実は歴然たるものである。しかし、ここでも主の奇跡が行われる。ペテロが「タビタ、起きなさい」と呼びかけると、驚くことに彼女がしっかりと起き上がったのである。これは主イエスがルカ8章で行われた「タリタ、クミ」の奇跡と非常に類似している。しかし、根本的に違うことはペテロがひざまずいて祈ったことであり、「私(ペテロ)が立たせる」のではなく、「主が立たせてくださる」から起きなさいという宣言である。これがいやしの奇跡の本質と言えよう。主は私たちにその御手を置いて「いやし」、御手を差し出して「立たせ」、そして、罪と死の中から救い出してくださるのである。現在のコロナ禍に、私たちも厳しい現実の中で生き、生活しなければならない。自身の弱さにも向き合わなければならない。しかし、今も私たちに「起きなさい」と御声が聞こえる。
■結 論
牧会者ペテロが行った奇跡の業はいずれも主イエスの御名によるもので、単なる御利益ではなく主イエスの「救い」を指向するものである。そして、その神の業は主イエスを信じる信仰によって私たちに実現、結実していくのである。私たちも全ての状況に於いて、主イエスの御声を聴き、その招きに応じ、信仰によって立ち上がるものでありたい。そこには真のいやしがある。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①主イエスの御名に信頼できるように。
②常に信仰によって立ち上がれるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒10:1~33
説教題 「隔ての壁を越えて」
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