説教ノート No.8 2025.1.19
聖書箇所 コリント人への手紙第一3章18節~23節
■序 論
これまでパウロはコリント教会の抱える分裂・分派の問題に触れ、一致への勧告を語って来た。それを要約すると「自己中心を悔い改めてキリストを中心にする」ということである。地上の教会は決して無誤、無謬ではない。罪赦された罪人の群れである。しかし、キリストの愛を具現する信仰共同体として、負の現実にもプロテストする勇気と信仰を奮い立たせ、教会の聖化の途上を前に進むものでありたい。
■本論1 知者になるために愚かになれ (3:18)
先ずパウロは「だれも自分を欺いてはいけません」と厳しい言葉をもって忠告を語っている。これはギリシャ哲学と修辞学を最高の「知」とするコリントの町において、そこに立つ教会までその影響を受け、人々が自らを知者だと自負する自己認識、自己評価の誤りを指摘する言葉である。さらに自分が何者であるのかを見失った彼らに「知恵のある者になるために愚かになりなさい。」と逆説的に勧告しているのである。ここには二つの意味があり、消極的には神の知恵を知るために謙遜になれということであり、積極的にはこの世では愚かと思われる神の知恵を受け入れなさいということである。まさにキリストの十字架にこそ真の謙遜と完全な自己犠牲の姿があり、そこにこそ人間の知恵や思弁を越えた救いの根拠があると言えよう。そして、この中心点に一人ひとりの心が向かうとき、教会は人間の力のバランスではなく聖霊による一致を経験し、分裂・分派の溝が埋められていくのである。
■本論2 自らを誇らず (3:19-21)
次にパウロは、人間が神の前に自らの知恵を誇らず謙遜であることの必要を説くために旧約聖書から二つの例を引用している。第一はヨブ記5章13節から「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」と語り、神を無視し己を絶対視する人間の知恵は結局虚無に回帰することを指摘し、彼らは神の裁きをすでに受けていると教えている。第二は詩篇94篇11節「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しい(効果がない、実を結ばない)かを、知っておられる」を引用し、人間の思弁や議論は自らの救いに全く効果がないことを明らかにしているのである。この二点を指摘した上で、パウロは「だれも人間を誇ってはいけません」と結論付けている。これは信仰的自己否定を教えると同時に、教会では誰も誇る必要がないことを教える言葉でもあると言えよう。それはキリストにある全ての「知」も「富」も「宝」も、これら全てのものが既に私たちのものとして与えられているからである。私たちがこの事実を知るとき、私たちの心には喜びと平安、そして、魂の深い充足感が満ち溢れて来るのである。
■本論3 キリストのもの (3:22-23)
最後にパウロは、これまで語って来た勧告の結論を述べている。それは「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです」という三段論法で説明される。これは教会における私たちの存在は、全てキリストのもとにあって生かされており、私たちの存在の根源がキリストと神にあることを教えていると言えよう。ところがコリント教会の人間関係は、パウロやアポロの名を利用して互いに自分の存在を誇示し、他者を勢力下に置こうとしていたのである。しかし彼らは教会に神によって立てられた働き人に過ぎない。
その上で、全てのものはキリストのものであり、教会はキリストと共にこれらを支配する者とされると教えられている。驚きの言葉である。実は私たちには全てのものが既に与えられていることを感謝しようではないか。そして、私たちは自身がキリストのものとされていることを誇りとしよう。人の心に潜むコプレックスと表裏一体、高慢から生じる分裂分派は消失し、キリストの教会が一つとされていくのである。
■結 論
パウロはⅡコリント10章17~18節において「誇る者は、主を誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。と語っている。さらに同書11章30節では「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」とも告白している。私たちも徹底してキリストにある謙遜を貫いて生きたパウロはじめ先人に習いたいものである
■御言葉に対する応答の祈り
①教会にある主にある一致を感謝しよう。
②己を誇らず主を誇りとしよう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント4:1~5
説教題 「神の奥義の管理者」
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