「愛に育まれ」
- 3月12日
- 読了時間: 4分
説教ノート No.30 2026.3.8
聖書箇所 コリント人への手紙 第一 13章1~13節
■序 論
パウロは12章において賜物の多様性と一体性について論じつつ、さらに「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい(31節)」と語った。この「よりすぐれた賜物」とは何か。それをこの13章において明確に解き明かし、それが「愛」であること指し示し、愛こそ全ての賜物を真に生かす原動力であり、愛がなければ全てのものが根本的に意味を失ってしまうことを教えている。これを教会を意識しながら考えてみよう。
■本論1 愛に育まれー愛の裏付けー (13:1-3)
パウロは先ず、12章において提示した「御霊の賜物」のいずれのものを与えられていたとしても、そこに愛がなければその賜物は無に等しいと声を大にして強調している。たとえ異言の賜物で語ってもそこに愛の裏付けがなければ、礼拝者を興奮させるために用いた異教神殿のシンバルと同じであり、預言、奥義、知識、信仰という優れた賜物があっても、やはり愛がなければ何の値打ちもなくなってしまうと言うのである。さらには徳の高い慈善や殉教の死であっても、それが愛から出ていなければ結局人間の誇りや肥大した自意識に帰結することになり何の役にも立たないと言い切るのである。私たちは「愛」が全ての行為の動機として絶対的な意味を持つことを再確認させられる。また私たちに与えられている賜物が愛を動機として機能しているかどうかを点検すべきことを自覚するものでありたい。教会は愛によって生かされ、愛に育まれて互いに成長することを覚え、自分の愛のあり様を問い続ける者となりたい。
■本論2 愛の具体性 (13:4-7)
次にパウロは、愛が何であり、何でないかを具体的に書き記すことによって積極的に愛の本質を解き明かそうとしている。先ず愛の特徴を「寛容」「親切」という肯定的表現で説明する。「寛容」は交わりを断たないことであり、「親切」は能動的に自分を向けていくことである。次に「ねたみ」「自慢」「高慢」というコリント教会の現状を反映する否定的表現で、それを打ち消す形で愛の側面を説明している。さらに現実生活の具体的事柄として「礼儀に反することをせず」「自分の利益を求めず」「苛立たず」「人がした悪を心に留めず」「不正を喜ばずに、真理を喜ぶ」と言葉を選んでいるが、どれも観念やイメージとしてではなく、平凡な日常生活の中での極めて具体的なこととして具現される必要があることに気付かされる。そして、その「愛」は自分が当事者となって神の前に「全てをがまんし」「信じ」「期待し」「耐え忍ぶ」ことで豊かな結実を見ることが出来るのである。私たちも共にその愛を実現するものでありたい。
■本論3 愛の永遠性と卓越性(13:8-13)
愛の具体性について教えたパウロは、結論として「愛は決して絶えることがありません」と語っている。コリント教会が熱狂的に求めた「預言、異言、知識の賜物」はやがて廃れゆく一時的なものであるのに対して、愛(エロスではなくアガペー)は御霊の実として与えられ、神の本質を反映して具体的行為に結実し、永遠に存続すると言えよう。また人間は理性や能力を通して完全に神を認識することはできず、神は具体的な愛を通してご自身を示されるのである。そして、パウロは「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」と語って結論付けている。注目すべきは「すぐれている」という語が「比較」の意ではなく「基盤」を意味しているということで、つまり「愛」が信仰と希望の基盤であることを私たちも見失ってはならない。教会はこの「愛」をキリストにある交わりの中で追い求め、豊かにその実を結び、実現する使命と責任があることを覚えたい。もちろんこの事すら義務ではない。自らへのキリストの愛と義性に対し、感謝と喜びの発露として動機付けられてのことである。
■結 論
私たちも「愛の人」として成長・成熟するものでありたい。また南柏聖書教会が建て上げられる基盤も「神の愛」であって感情に左右されるヒューマニズムや人間の能力・知識ではない。この確認のもとに、私たちは教会のコイノニア(交わり)の中に神の愛を実らせ、共に経験し、互いを思いやる心と行動を具体的に育んでいきたい。そこに真のエクレシア(教会)がキリストのからだとして建て上げられていくのである。
■御言葉に対する応答の祈り
①教会の交わりに愛を具現できるように。
②教会が神の愛のうちに建て上げられるように。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント14:1~19
説教題 「徳を高めるために」
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