「わたしの誇り」
- mkbible
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説教ノート No.22 2025.9.7
聖書箇所 コリント人への手紙第一 9章1~18節
■序 論
パウロは前章において、偶像に捧げた肉を食するか否かを例に、旧約律法との関係性から信仰の「弱い者」と「強い者」の表現を用いてユダヤ人と異邦人キリスト者の前提の違いを説明してきた。結論は互いに「裁かず」「侮らず」を原則に、相手をつまずかせないための配慮が必要ということである。続くこの9章では、パウロは自分自身の生き方、信仰者としてのあり方を証しする。
■本論1 つまずきにならないように (8:7-9)
先ずパウロが語っていることは自分の「使徒職」についての弁明である。迫害者サウロが復活のキリストの前で回心して以来、彼は福音の使徒として生涯を貫き、その福音の自由を謳歌して生きる者であった。しかも、自らの権利や自由を隣人への愛のためにのみ用いることを選び、それを実行してきたし言えよう。ところが、キリスト者の自由の意味を理解せず、律法主義者や快楽主義者たちから、パウロの教えや彼の使徒職を否定する激しい批判と抵抗が出て来たのである。この厳しい状況において、パウロは自らの使徒職を証明する根拠を二つ指摘している。第一は彼自身が十字架の目撃者であり復活のキリストと直接対面している事実。第二はパウロの伝道の働きによってコリント教会が存在している事実である。自らを拒否する者がおり、問題多きコリント教会をも、なお自分の存在の証しであるとするパウロの視点に、キリストの教会に対する深い愛と使徒職への強い責任感を感じとることが出来る。
■本論2 知識が人を滅ぼす (8:10-12)
次に、パウロは使徒としての自らの権利について弁明している。第一は「食べたり飲んだりする権利権利がないのですか。」(9:4)と語っているが、これは生活権の主張と言えよう。福音のためにフルタイムで仕事をする者も当然のことながら衣食住の基本的権利があり、それに神の保証と配慮が備えられていると、当然のことを確認しているのである。第二は「妻をつれて歩く権利」(9:5)つまり「結婚」する権利である。これも当然のことではあるが、伝道者は禁欲的独身主義者ではない。一人の異性を愛し、家庭を築き、信仰継承の器である子どもを育てる権利と大きな使命がある。神の賜物としての独身とは区別しなければならない。第三は経済的権利。宣教の働きはそこに経済的裏付けが必要不可欠である。精神的自立には経済的自立が不可欠てあることと同様である。財的裏付けのない宣教は実質のない理想論に過ぎない。パウロは霊的働き、宣教に直接従事する者が教会によって経済的に支えられる権利があると当事者として主張しているのである。それは自己弁護・主張ではなく、キリスト教会の成長・成熟のためである。
■本論3 愛による判断 (8:13)
最後に、パウロは上記において自らの権利の正当性を語った上で「私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」(9:12、15、18)と三回も重ねて断言している。それではなぜ彼は自分の当然の権利を用いなかったのか。それはパウロが「私の誇りを空しいものにすることがないため」(9:15)と説明している。彼はピリピ教会からの支援を感謝して受けたが、問題の多いコリント教会からは誤解を避けるため、負担をかけないために支援を受けなかったのである。彼は自分の権利を福音と教会のために喜んで放棄したが、その報いは豊かに与えられていると感謝しているのである。彼にとって報いを求めないで福音を伝えること自体が大いなる報いなのである。私たちはパウロが「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」(9:16)と断言するほど福音を伝える使徒職にいのちがけで専念していたことを見失ってはならない。そして、私たちもパウロが誇りとしたことを自らの誇りとし、キリストの福音を証しし、宣べ伝える者となりたい。
■結 論
パウロは使徒職への確信と誇りをもって自分の務めに励んできた。彼の生き方そのものである。そこには自分の権利を主張するのではなく、逆に福音のために自分の権利を放棄するというものであった。驚きである。しかし、ここにパウロの救霊への愛と、宣教への動機付けがあることが見えてきた。私たちも同じキリスト者であることを誇りとし、神からの報酬を豊に受けていることを喜び感謝しようではないか。
■御言葉に対する応答の祈り
①愛によって権利を放棄する勇気を養われよう。
②神から与えられる豊かな霊の報いを感謝しよう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント9:19~27
説教題 「朽ちない冠を受けるため」
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