「試練と共に脱出の道を」
- mkbible
- 9月22日
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説教ノート No.24 2025.9.21
聖書箇所 コリント人への手紙第一 10章1~10節
■序 論
前段落でパウロは信仰者の生き方を競技者の姿に類比させて、コリント教会の信徒たちに失格者ではなく勝利者となるべく自制し自己鍛錬に励むようにと励ましの言葉を語った。私たちは聖化の途上、自身の信仰生活においても様々な試練や誘惑に直面し、また弱さや葛藤を経験するものである。自制を自らに強いて忍耐しなければならない時もある。私たちも競技の勝利者となり落伍者にならないために学ぶべきことがある。
■本論1 出エジプトと私たちの歩み (10:1-6)
先ず、パウロは旧約時代におけるイスラエルの歴史を紐解きながら、エジプトの支配から解放され約束の地を目指したイスラエル民族の歩みに着目させている。そして、出エジプト記に記されたその歴史の事実はまさに私たちの人生、信仰の歩みに重なると言えよう。400年間のエジプトにおける奴隷状態を脱し、彼らはモーセを導き手として紅海を渡り、シナイの荒野を進む過程でマナを食べ、ホレブの岩に涌いた水を飲んだ。それはみなキリストの救いの御業を予表する出来事である。これを私たちに当てはめてみると、私たちもキリストに導かれながら人生行路を歩むものであり、喜びも悲しみも、彷徨も困難も経験しながら聖化の途上を進み行く旅人である。そして、ここには一つの教訓がある。出エジプトの民の大半は自らの貪りと神への不信のゆえに、その大半が荒野で滅んだ事実である。これを私たちは自らへの戒めとして受け止め、決してキリストと、その救いの御業から離れることのないよう心したい。
■本論2 反面教師から学べ (10:7-10)
次に、パウロはイスラエルが出エジプトの道でつまずいた具体的な失敗を列挙し、コリント教会が、引いては私たちが同じ轍(わだち)を踏まないよう、反面教師として提示している。その第一はモーセの不在に金の子牛を神として拝んだ偶像礼拝のつまずき。出エ32章)。第二はシティムでモアブの娘が行う偶像祭儀に出て淫行にふけった罪。民数25章)第三はホル山を発った後、空腹に苦しみ不平不満を言って主を試みた高慢。(民数21章)第四はモーセとアロンに対して指導力を非難してつぶやいたこと(民数16章)。これらの不信仰のために多くの民が死んで滅んでいることを見落としてはならない。実はこの有様はそのままコリント教会の現実でもあったのである。偶像礼拝、不品行、分裂、批判は教会の生命を失わせ、信仰の破綻へと向かわせる。故にパウロは声を大にして、私たちに対しても彼らに倣ってならないと繰り返し警告を語るのである。私たちは自分自身の心と信仰生活のあり方をいつも点検し、荒野に倒れ去ったイスラエルの轍に陥ることのないよう悔い改めと軌道修正をなすものでありたい。
■本論3 試練と共に脱出の道も (10:11-13)
最後に、これまで戒めと歴史の事実からの教訓を語ったパウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(10:12)と忠告している。それはもちろん私たちが戦戦恐恐として信仰生活が萎縮することを願っての言葉ではない。全知の神は、私たちの弱さを知り、私たちの経験する試練や誘惑にも守りの御手を伸ばし、必要な助けと計らいをなして下さることを忘れてはならない。見失ってもならない。神は私たちの信仰の訓練のために時として試練を与えられるが、それは決して耐えられないものではない。それをパウロは「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(10:13)
と確信を持って語っている。それは彼自身がわが身に体験した事実であるがゆえに説得力があると言えよう。そして、私たちはこの約束があればこそ、どんな状況においても希望を失うことなく、勇気をもって前進することができる。今まさに試練の渦中にある兄姉よ。この御言葉の約束に固く立とうではないか。
■結 論
私今、まさに聖化の途上にある私たちを、神は私たちに必要な訓練をもって導き、また引き上げて下さる。神と御言葉への信頼によって、試練の重さや、甘美な誘惑によって足元から倒されてはならない。たとえ試練の苦しみにあっても、主のご計画と、支えて下さる強き御手を覚えて信仰に立ち続けよう。あのヨシュアとカレブがやがて約束の地に立ったように、私たちも御国を目指そう進もうではないか。
■御言葉に対する応答の祈り
①イスラエルの失敗から悔い改めを学ぼう。
②試練の中でも信仰による希望を仰ごう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント10:14~33
説教題 「神の栄光を現すため」
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