「神の栄光を現すため」
- mkbible
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説教ノート No.25 2025.10.26
聖書箇所 コリント人への手紙 第一 10章14~33節
■序 論
イスラエルの歴史を振り返り、信仰から逸脱し偶像礼拝に陥った時には必ず神の祝福を失うと、旧約聖書の記述から紐解いている。これはクリスチャンすべてに当てはまることであり、イスラエルの荒野の旅のように、私たちも聖化の途上を歩みながら試練に合う。私たちが、それでも節制し鍛錬をして歩んでいても、この世の楽しみへの欲望や主への不平不満などという罪の弱さにさいなまれる。だからこそパウロは信仰の道を走り抜いて朽ちない冠を受けるように、試練があっても必ず脱出の道があるからとの励ましを語る。今日のテキストは偶像礼拝の罪と主の聖餐にあずかることの恵みを対比させながら、私たちがどのようにして神の栄光を現していくかを教えている。
■本論1 主の聖餐の祝福 (10:14-22)
パウロは「私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」(14節)と、まず結論を語り、主の聖餐にあずかることの祝福と偶像礼拝の食卓につく意味の違いについて教える。主の聖餐の意味を取り違えることによって主のねたみを引き起こすことになる危険を警告する。主の聖餐の食卓につくことは、すなわちイエス・キリストの裂かれた肉と流された血にあずかることであり、それは罪の赦しと永遠の命の祝福を一つに共有することである。キリスト者はこの聖餐によっていのちを得、信仰生活の力を受けるのである。それに対して偶像礼拝に関係する食卓につくことは「悪霊と交わる」(20節)こととパウロは言い切る。この二つには一致点はなく、どちらにもあずかることはできない。私たちには二者択一の選択と偶像礼拝に対する徹底した拒否を求められているのである。聖餐式ごとにキリストと一つにされている恵みを覚え、信仰に固く立つことが聖化の途上を歩んでいく力となる。
■本論2 受容することによって現される神の栄光 (10:23-27)
次に、パウロは信仰生活における基本的な判断基準を再確認する。23~24節の「すべてのことが許されている。・・・自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」という勧めは黄金律で、キリスト者に求められる視点である。これを前提にして、一般市場で売られている肉は宗教上の判断を入れずに感謝して食し、また信仰者ではない家の食卓に招かれた時も、自分の信仰の尺度で測ってさばいたりせずに、感謝して受けなさいと勧める。「受けるのも愛」という言葉があるが、相手の心遣いを感謝してそれを受けることが互いの関係をより親密にすることになる。そして、その信頼関係はキリストを伝達する前提となるのである。これこそ徳を高め神の栄光が現されることである。私たちも自己防衛的な信仰から、妥協ではなく「受容」の幅を広げられて成長していきたい。
■本論3 拒否することによって現される神の栄光 (10:28-31)
キリスト者の生き方には「寛容」を徳としながらも、「非寛容」を鮮明にしなければならない時がある。パウロは、誰かが「これは偶像にささげた肉です」(28節)と言うなら、その人のつまずきにならないためにも、自分が食することで第三者の良心が傷つかないためにも拒否すべきことを教える。「否」を言うことは簡単ではない。勇気が必要になる。しかし、その「否」が他の人の徳を高めることになるなら、私たちは神に信頼して自分の立場を鮮明にしたい。けれども、自分の考えや主張を絶対視すると、それが相手にとっても正しいことだと独善的な判断になり、その結果、相手を傷つけてしまうことにもなる。この人間の弱さを自覚しつつ、飲食を超えて何をするにも「神の栄光を現すために」(31節)行動できるよう祈りつつ歩みたい。
■結 論
パウロは結論として「人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め」(33節)と語る。8章で信仰の弱い信者のつまずきにならないようにと語り、ここでは未信者に注目して、パウロの福音宣教の使命のため、神の栄光のためには喜んで何でもするという積極的な信仰の姿勢に、私たちは教えられ、励まされる。私たちの判断と行動が御心にかなうよう共に祈ろう。
■御言葉に対する応答の祈り
①全てのことが神の栄光に結びつくように。
②互いに徳を立てる交わりが築かれるように。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント11:1~16
説教題 「神の前に出る姿勢」
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