「朽ちない冠を受け」
- mkbible
- 9月18日
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説教ノート No.23 2025.9.14
聖書箇所 コリント人への手紙第一 9章19~27節
■序 論
パウロは前段で「自分の権利を福音のために放棄する」という彼の価値判断について切々と語ってきた。しかし、それは決して禁欲的なことでも、自分に不自由を課するようなものではない。むしろ福音の自由と豊かさを経験するものであり、喜びと感謝に繋がることであると誇りをもって告白してきた。そして、その信仰者の生き方を、古代ローマ時代の競技者の姿にたとえて説明を続けている。
■本論1 ユダヤ人にはユダヤ人のように (9:19-23)
先ず、パウロは自分のアイデンティティについて、つまり自らの立場の選択とその目的について語っている。第一は、①自由人であるがすべての人の奴隷となった。(9:19)彼の目的はより多くの人をキリストへと導くことであり、罪と死から解放された真の自由人は下僕となることでその自由は失われず、さらに輝く者となるのである。第二は、②ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たない人々には律法を持たない者のようになった。(9:20-21)パウロは、律法から解放されてもユダヤ人を福音へ導くために律法の下にある者のようにふるまい、律法を持たない異邦人には彼らと同じになることで福音を伝えようとしたのである。これは優柔不断ということではなく、伝道のために対象者と同じ立ち位置につき、そこに福音を共鳴させるための同一化と言えよう。第三は、③弱い人たちは弱い者となった。(9:22)これは自己主張を避け、福音の本質を歪めること以外は相手の立場を受け入れていく「愛の視点」からの言葉である。以上のことは福音の伝達と教会の一致のために不可欠であり、私たちもこれに学び習いたい。
■本論2 朽ちない冠を受けるために (9:24-25)
次に、パウロは信仰生活の目指すものと、そのために必要な自己訓練の必要について語っている。当時コリントでは今日のオリンピックの源流の一つとも言えるイスムス競技大会というスポーツの祭典が二年毎に開かれ人々の人気を得ていた。競技に参加する者は勝利に向かってひたすら走る。そして、その勝利のために競技者は自制し自らの精神と肉体を最大限に整えるのである。ちょうど信仰者の生き方もこの競技者に類比されると言えよう。私たちも平凡な日常に埋没して自己満足に陥り、惰眠をむさぼってはならない。与えられている恵みに全力で応答し、朽ちることのない勝利の冠を目指して御業に励みたいものである。競技を途中で放棄したり、肉体の調整を怠るとどんなに能力があっても勝利することはできない。私たちの信仰生活への適用として覚えたいことは、救いの恵みを感謝し、宣教の使命を忘れず、信仰生活の基本に忠実であるかを確認することである。私たちもたくましく栄冠を目指して前に進む者でありたい。
■本論3 自分が失格者とならないために (9:26-27)
最後に、パウロは競技者が勝利を得るためにどうしても必要な事柄を二つ指摘している。第一は「目標がはっきりしないような走り方はしない」(9:26)というとである。ゴールの見えない競技は孤独と疲労感だけが積もるものである。しかし「キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:14)とあるように、私たちは主イエスを見つめつつ、天の御国を目指してひたすら走ることができる。第二は、拳闘者は相手を的確にとらえて打撃を与えなければ勝利を得ることができない。この相手は他でもない「自分のからだ」(9:27)である。怠慢、高慢になりやすい自我を自制によって砕き、ふさわしい者として自分自身を整えるのである。それは自分が失格者とならないためでもある。キリスト者は極端な禁欲主義者でも、快楽主義者でもない。キリストにあって真の自由人とされている。同時に信仰に基づいた「自制」によって自らを整え、練られた品性と力の実を結びたい。
■結 論
私たちは、福音の宣教のために常に自分を相手の立場に置いて受け止めることのできる「柔軟な信仰」を持ち続け、同時に自分自身に関しては自らを「自制」して霊の戦いに勝利することのできる資質を整えていきたいものである。聖化の途上において、私たちは自己鍛錬を意識し、自分のなすべき事により高い質を求める者となろう。「よくやった忠実なしもべよ」という賞賛と、朽ちない栄冠を期待しつつ。
■御言葉に対する応答の祈り
①相手に自分を開く柔軟な態度がとれるように。
②自制による信仰の自己訓練ができるように。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント10:1~13
説教題 「試練とともに脱出の道を」
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