説教ノート No.1 2022.9.4
聖書箇所 ローマ人への手紙1章1節~7節
■序 論
紀元56年頃、第三次伝道旅行コリント滞在中、ローマ教会にこの手紙を書き送っている。彼は西へ帝都訪問を願いつつ、東にエルサレムへと進むことになった。そこで皇帝崇拝や異教都市の真っただ中で生活するローマのキリスト者が、信ずる内容理解(教理)においても、福音に相応しい生き方(倫理)においても、いよいよ成長・成熟するべく、励ましの筆を執ったのである。そして、私たちにも。
■本論1 キリストのしもべ-パウロの自己紹介- (1:1)
先ずパウロは手紙の冒頭を自己紹介から始める。それは第一に「キリストのしもべ」である。ローマ市民権を持ち、自由市民である彼にとって奴隷を意味する「しもべ」はかつて忌むべき名であったが、主イエスのものとされてから「しもべ」は真の救いと自由を誇る名に変わった。第二は「使徒」である。これは「遣わされた者」を意味し、主人の権限とメッセージを携えて出て行く全権大使のことである。第三に「福音のために選び分けられた者」で、十字架の福音を証しするために神によって聖別された者を表している。かつてのサウロ(求めるの意)が主イエスによってパウロ(ラテン語で小さな者の意)に造り変えられ、神の栄光を現す器とされた事実に、無から有を創造される神のくすしき御業を強く感ずるものである。私たちも自身のアイデンティティ、すなわち自分が何者であるかの大前提に、このパウロの自己紹介を重ねて自覚したいものである。「キリストのしもべ」として。
■本論2 福音とは-イエス・キリスト- (1:2-6)
次にパウロは、自分が何のために「しもべ」また「使徒」として聖別され、召されたかを説明する。それは「福音」のためである。福音とはもともと「良い知らせ」のことであるが、ここでは救い主であるイエス・キリストそのものを意味し、そこに二つの側面があることを教えている。第一に主イエスはまことの人であり、私たちと同じ人としての性質を持たれればこそ、私たちの弱さ、痛みや苦しみを全て分かりになるということである。第二は神の御子、厳密にはまことの神であるがゆえに、私たちの罪や汚れを全て赦し、死と滅びから救うことが出来ることを示している。言葉をかえると「福音」には神の深いあわれみと、救いのエッセンスが込められ、それが主イエスの十字架と復活において完全に示されていると言うことができる。そして、パウロはこの大いなる福音を全ての人々に宣べ伝え、信仰と救いを共有したいと願ったのである。私たちも福音の中心をしっかりと握り続けよう。
■本論3 祝祷-ローマの聖徒たちに- (1:7)
このように自己紹介したパウロは、段落の終わりにローマの兄姉たちのために心から祝福の祈りをささげる。先ず、彼らのことを「神に愛され」「召された聖徒たち」と、愛情と尊敬を込めた言葉で呼びかけ、教会に連なる者の本質を確認している。それは、キリスト者は神の愛を経験し、その栄光を現すために聖別された者であると言うことである。そして、最後に祝祷「恵みと平安があなたがたにありますように。」と結んでいる。「恵み」は受ける側の条件を問わない一方的な神からの祝福であり、「平安」はまさにシャローム、十字架の福音によって与えられた神との関係回復、救いによってだけ得られる魂の平安を意味する。神に愛され、キリストを信じる者からこの「平安」を奪い去ることが出来る者は誰もいない。私たちに、今もこれから後も、この祝祷に込められた「恵」と「平安」が確かにあることを覚え、神の「シャローム」に感謝しようではないか。ハレルヤ。
■結 論
このローマ人への手紙を共に学ぶことを通して、私たちが「キリストのしもべ」とされ、福音によって、福音のために生かされていることを確認しよう。そして、私たちが教理的にも、倫理・実践的にも、信仰の両側面に成長し、聖化の途上を成熟へと向かい、いよいよキリストの弟子として神の栄光を現していくものでありたい。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①主のしもべとされていることを誇りとしよう。
②与えられた恵みと平安に感謝しよう。
■次回説教
聖書箇所 ローマ1:8~17
説教題 「福音を恥とせず」
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