説教ノート No.10 2025.2.9
聖書箇所 コリント人への手紙第一4章6節~13節
■序 論
使徒パウロは、キリストにある者に相応しい自己認識を「神の奥義の管理者」「キリストのしもべ」という言葉で表現し、自分自身をも徹底的に低くした。この「謙遜」こそキリスト者に求められる大切な資質である。私たちにおいても真に謙遜であるとはどういうことかを自問し、またその実を結ぶ者でありたい。ここに記されたパウロのコリント教会への勧告に学び、私たち自身が整えられて行きたい。
■本論1 謙遜を学べ (4:6-8)
先ずパウロは、彼がこれまで語ってきたことは全てコリント教会に連なる信徒たちの信仰の目を開くためであると前置きしながら、厳しい言葉で「謙遜」になることを勧告している。第一の勧告は「書かれていることを越えない」(4:6)ということで、これは人間の高慢や独善を戒める意図があり、聖書の基準から外れないよう御言葉から学べという意味がある。謙遜の基準や真価は聖書にあり、それに学び実践せよということである。第二の勧告は「一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないよう」(4:6)と求められている。これは派閥の力を利用して自分を誇る愚かさを指摘し、それを悔い改めるべきことを迫る言葉である。さらにパウロは「あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。」(4:8)と皮肉り、彼らの未成熟、霊的貧困を明らかにするのである。私たちも自分自身を内省し、謙遜の実をどの様に結んでいるか問いかけてみよう。
■本論2 キリストのゆえに (4:9-10)
次にパウロは、使徒としての自分の姿を示すことで、これまで語ってきたアイデンティティの問題をさらに発展させて教えようとしている。驚くことに、彼は自分を「この世の見せ物」と表現している。これはローマ時代に円形劇場で多くの見せ物興行が行われ、最後のメインイベントに、死罪に決まった犯罪者が猛獣と戦い血を流す格闘戦が披露されていた。パウロはこれを意識して自分を「この世の見せ物」と言い切っているのである。まさに使徒パウロの生きざまそのものであり、困難や試練と戦いつつもキリストを証しすることを願うキリスト者の姿でもある。このようにしてパウロはコリント教会にキリスト者の原型を突きつけ、どの様に生きるべきかを示したと言えよう。そして、コリント教会の信徒には、真に賢い者となるために愚かになり、主にあって強い者となるために自分の弱さを知り、御国の栄誉を与えられるために卑しめをも甘んじて受けよと逆説的に迫ったのである。これはキリストの十字架を仰ぐ信仰によってのみ可能となるものであり、私たちもだだキリストのゆえに、キリストのために生きる者でありたい。
■本論3 真の謙遜は (4:11-13)
最後にパウロは、福音のために困難な中を歩んできた自身の証しを語っている。「今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、労苦して自分の手で働いています。」(4:11-12)という言葉に圧倒される思いである。注目すべきは、パウロが「私」と言わずに「私たち」と言っている点で、この二人称複数はパウロ、アクラとプリスカ、その他、コリント教会の誕生に労した者たちを意味し、その模範に立ち返れというエールが込められていると言えよう。さらにパウロは、ののしる者を祝福し、迫害に耐え、中傷する者に優しい言葉をかけて来たとも言っている。決して自我自賛ではない。ここに真の謙遜が示されており、キリストの謙卑に倣う者の姿である。その上でパウロは自分のことを「この世の屑(くず)」「あらゆるもののかす」と自称する。これは極端な自己卑下の言葉ではない。キリストを誇りとし、十字架の価値を最高とする信仰の「ハカリ」から見えてくる「自分」である。
■結 論
人間は自分の虚像を人の前に誇り、また甘えの言い訳をしやすい者である。しかし、キリストの御前に自らを徹底的に低くし、キリストの福音ゆえに積極的に他者に働きかけていく生き方こそ「信仰の謙遜」と言えよう。一人のキリスト者として生きる私たちも、その共同体である教会も、「キリストのゆえに、キリストのために」謙遜の実を結びつつ、この道を歩んで生きたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①真の謙遜の結実を求めて生きよう。
②キリストご自身から謙遜を学ぼう
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント4:14~21
説教題 「愛する者として」
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