説教ノート No.5 2024.10.27
聖書箇所 コリント人への手紙第一2章6節~16節
■序 論
パウロはこれまで、福音の宣教と教会形成がこの世の知恵とその力によるのではなく、人には愚かとも思える神の知恵と聖霊の力によることを説いてきた。そして、この段落ではこの世の知恵と根本的に違う神の知恵そのものについて説明している。私たちはこの箇所を通して、人の知恵と神の知恵を選別し、私たちの信仰告白と信仰生活に揺るぎない土台を据えて行きたい。
■本論1 成熟した者として (2:6-9)
段落冒頭、パウロは「成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と言っている。この「成熟した人たち」とは誰のことであろうか。辞書的にはこの「テレイオイス」という語は「成人」「円熟、成熟した者」「目標に達した者」という意味を持つが、つまり信仰の幼子の段階から成長して成熟したキリスト者のことである。聖化の途上を様々な経験を経て、御言葉によって練り鍛えられた者ということも出来るであろう。私たちが目指し、そのようになりたいと願うところである。次にパウロは、彼らが語る言葉は「知恵」であると語り、それはこの世の虚ろな人間の知恵ではなく「隠された神の知恵」(2:7)であると説明している。そして、その内容はキリストの十字架において示された神の救いの計画そのもののことである。しかし、この知恵はキリストを受け入れない者にとっては隠されたものとなるのである。世の知者、支配者を自負する者たちが、十字架を仰ぐことなく神の知恵を見失っていることも事実であると言えよう。
■本論2 神の御霊を受けて (2:10-12)
次にパウロは、「神の知恵」すなわち十字架の救いが私たちに実現する根拠について説明している。それはもちろん私たちが罪を悔い改め信仰を告白したからであるが、実はそれすら「御霊の働き」によるもので、10節に「神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。」とあるとおりである。「啓示」とは隠されていた事柄が明らかにされることである。考えてみれば人間関係においても、人は他人の心の真意を容易に知ることは出来ない。それを知るのはその人自身の心である。同様に神の御心は人間には計り知れず、ただ神の御霊のみがそれを知るのである。しかし、キリストを信じ聖霊を受けた者は、御言葉と共に働く御霊の力によって、その神の御心を豊かに知ることが出来るようになるというのである。12節に「神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。」とあるように、私たちが「知る」のは私たちに恵みとして与えられたキリストの十字架のことである。聖霊によって十字架を仰ぎ続けよう。
■本論3 キリストの心によって (2:13-16)
最後にパウロは、信仰によって御霊を与えられた者と、生まれながらの人間を対比させてその決定的な違いを明らかにしている。「生まれながらの」という語は直訳すると「心理性、精神性」という意味があり、生まれながらの人とは人間側の価値基準、価値判断しか持たない者を意味している。それはキリストによる霊的新生を経験していない人のことで、このような者は御霊を持ってはいない。結果、その人は神の救いの計画を愚かなこととしてキリストの十字架と復活を拒否するのである。しかし、新生して御霊を与えられた者には決定的な違いがある。16節に「しかし、私たちはキリストの心を持っています。」とあるように、信仰によって生きる者は聖書を通して働く聖霊の導きによってキリストの御心を知り、判断し、それに従って生きる者と変えられたのである。私たちが信仰生活を貫いて礼拝を喜びとし大切にする理由がここにあると言えよう。三位一体の神を告白する私たちは、聖霊によってキリストの心を知り、キリストの心を持って神に遣わされた場で生きる者である。世の光、地の塩として・・。
■結 論
聖化の途上を歩む私たちの信仰生活は決して楽しいことばかりではない。苦しいこと、悲しいこと、時には混乱の中を通ることがある。しかし、聖霊なる神が私たちを導き、キリストの心が私たちを支えて下さることを覚えて励ましと力を得よう。そして、御言葉に学びつつ信仰の成熟へと向かいたいものである。キリストの心をわが心として生きていこう。天を仰いで。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①成熟した信仰へ高められるよう祈ろう。
②聖書を通してキリストの心を知り従おう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント3:1~9
説教題 「成長させる神」
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