説教ノート No.39 2022.3.27
聖書箇所 使徒の働き22章1節~30節
■序 論
パウロのエルサレム帰還後における捕縛は、ユダヤ人がローマ側に訴える形で行われたが、それは不当なものであり、状況としては最悪であった。ても、しかし、そこにおいてもパウロが同胞ユダヤ人の前での前で直接十字架の福音を弁明し、さらには彼がローマに向かう道を開くための神の計画が備えられていたのである。そして、パウロは大胆に口を開く。彼の語る言葉には誰も否定することのできない事実の力があった。
■本論1 キリストとの出会い (22:1-9)
先ず、パウロの弁明は自身が生粋のユダヤ人である彼の自己紹介から始まっている。タルソ生まれのガマリエル門下生とはユダヤ教保守主流派のエリートで、律法遵守に極めて厳格なユダヤ教徒。しかも、教会を迫害するほどの熱心さをもって神に仕えていたと、彼は自分の負の過去までも証したのである。これは自分に剣を向けるユダヤと共通の立場にあることを訴えるためであろう。さらに続けてキリストとの出会いの事実を強調している。教会迫害、キリスト者捕縛に向かうダマスコ途上で見た天からの光は、それが主イエス・キリストの栄光の姿であること、そして「サウロ、サウロ」と名指しで自分に呼びかける声は、まさに主イエスの御声であったことを強調している。このキリストとの個人的出会いの体験こそ、パウロ自身を大きく変える「救い時」となったのである。私たちもキリストとの個人的出会いの体験をいつも鮮明に証言する者でありたい。私たちの救いへの導きはそれぞれ多様ある。そこにある感動や喜びを失わないでいたい。この事実が力となる。
■本論2 パウロの回心と召命 (22:10-22)
さらにパウロの証しはその核心とも言うべき彼の回心へと進む。彼はそれまで見たことのない輝く光を目の当たりにして自分の光を失ったのである。そして、その盲目の闇の中で彼が神によって見せられたものは、自らの内なる暗黒、即ち自分自身の「罪」と「罪人」の自覚であった。神の光の前には全てのことが明らかにされ、それがいかに些細な罪であっても照らし出され、人の記憶から消し去られたことであっても、神の前には記録されているのである。そして、やがて全ての者が神の審判の前に立たなければならないと勧告した。このパウロが神の前に自らの罪を徹底的に悔い改め、自分の過去をキリストによって清算され、創造の神によって新しく造り変えられる「新生」の経験をしたのである。その時、彼の目は開かれた。ここにサウロはパウロ(最も小さい者)として新生し、彼に対する神の計画は、この救いの事実を異邦人のもとに知らせ、福音を宣べ伝えることであった。神は救い出された者を御自身の栄光のために用いようとしておられる。私達も救いの恵みに導かれた者として神の期待に応える者でありたい。
■本論3 福音のための抵抗 (22:23-30)
パウロが自らの救いの体験と、異邦人への宣教という自身の使命について語ると、ユダヤ人群衆はますますいきり立って騒ぎだした。それは、彼が律法順守による救いの否定や、異邦人の救いの事実を大胆に提示したため、彼らは選民意識が傷つけられたと強く感じたのであろう。要するに人間の奥にあるエゴイズム、ねたみ、やっかみである。人間の本質にある原罪の表出と言えよう。これに対するローマ側、権力側の対応を見ると、市中の騒動があまりにも大きくなったため、ヘブル語を理解出来ないローマの千人隊長は状況を正確に把握しないまま、パウロをムチ打って取り調べるよう命じた。しかし、ここから逆転が始まる。パウロがローマの市民権を持つことを主張すると、ムチを振り上げた人々が恐れて離れ去った。それはローマ市民権を持つ者には皇帝の権威とローマ法に基づいて人権が保証され保護されていたからである。パウロはこの千人隊長による不当な処置を皇帝に提訴し、ローマ帝国の中枢に働きかける道を作ることが出来たのである。神はパウロが目指した目的地ローマへの道を開かれたのである。逆方向に後退したようでも神は最善の道を設けて下さる。
■結 論
私たちにはローマの市民権以上の「天の国籍」が与えられている。そして、神はその権威と御力によって信仰生活を守って下さる。さらに必ず最善の道を開いて下さることを忘れてはならない。また私たちが得ている救いの事実には、何人も否定することのできない力がある。人を恐れる必要はない。私たちもいつも福音の証しに口を開くことができるよう祈ろう。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①救いの事実に神の力があることを確信しよう。
②神の権威に基づく保護があることを感謝しよう。
■次回説教
聖書箇所 使徒の働き23:1~35
説教題 「勇気を出しなさい」
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