説教ノート No.5 2022.11.6
聖書箇所 ローマ人への手紙2章17節~29節
■序 論
聖書は徹底して人間が神の前に罪人であることを指摘している。神はイスラエル民族に律法を与えることによって絶対的な神の基準を示されたが、旧約の歴史はその離反の連続であったと言っても過言ではない。人間は自分の力で神の基準を全うできる者は誰もいない。ゆえに私たちは神の前に「悔い改め」と十字架の贖いを信じる「信仰」によってのみ神に近づくことが出来、赦しの恵みに勝ち取られるのである。
■本論1 自分の高慢を知れ (12:17-24)
パウロは先ずユダヤ人の現実を指摘し、偽善と高慢という人間の罪をクローズアップする。ユダヤ人は神の選民として特別に召され、文字による律法を与えられて神に従う道を開かれていたが、やがて神から離れて特権意識と自己義認に陥り、他者を裁くようになってしまった。さらにパウロは同じユダヤ民族の一人として、律法によって人を裁いているユダヤ人自身が同じ罪を犯して律法に違反していると厳しく糾弾するのである。主イエスは、山上の説教において「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。なぜあなたは兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。」(マタイ7:3-5)と教えておられるが、今私たちに必要なことは、他の人の非を指摘する前に自身の非を認め、神の前に罪の自覚と悔い改めをなすことである。救いはここに始まる。
■本論2 律法と割礼 (12:25-27)
次にパウロは「割礼」の問題を取り上げ、さらにユダヤ人の矛盾を明らかにする。ユダヤ人の誇りは律法を持つことと、その証しである「割礼」にあったが、彼らが律法に違反していることにより、もはや割礼は無意味なものになっていた。そもそも割礼(ムーラー:切り捨てるの意)は、神とアブラハムとの契約のしるしとして行われたが、以来ユダヤ民族においては「選民の象徴」として重んじられ、やがて特権意識の裏付けになってしまったのである。表面だけを整えて自分を正しいものとする人間の愚かしさであると言えよう。しかし、神は見ておられる。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Iサムエル 16:7)と御言葉は語る。私たちは神の視線を前に、律法に達し得ない自分自身を率直に認め、表面をつくろって善人面をする自己義認の高慢を捨て去りたい。私たちがこの「割礼」の意味を思いめぐらすとき、自分自身が切り捨てるべきものが何であるのかを内省することを見失ってはならない。自分が何に執着し、何に縛られながら生きているのかを問いつつ、そこから解放され、真の自由への道を主イエスが備えて下さっていることを見出す者でありたい。
■本論3 心の割礼-真の悔い改め- (12:28-29)
最後にパウロはメッセージの中心を語る。それは罪人である人間にとって「心の割礼」こそ大切だという主張である。彼は先ず「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではない」と明言し、割礼や血縁が自動的に神の民となることを否定した。その上で、御霊による心の割礼こそ神の民とされる真の割礼であると教えるのである。それでは「心の割礼」とは何か? 申命記10:16には強情さを取り去ってしまうことと説明され、コロサイ2:11には「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。」と記されている。つまり心の割礼とは悔い改めによる自我の死、そして、キリストによる新生を意味していると言えよう。これは聖霊なる神のなせる業であり、私たち人間の側には悔い改めと信仰が必要になるのである。救いの唯一の条件である。私たちが主イエスの十字架を仰ぐとき、聖霊なる神は私たちの頑なな自我を打ち砕いて下さることを忘れてはならない。聖化の途上を歩む信仰生活において「心の割礼」を常に意識し、神に向けての方向転換、軌道修正を誠実になす者となろう。
■結 論
人間は自分の意思による努力や力によって悔い改めることはできない。それは人間の心が感情や状況に大きく左右され変化するからである。しかし、主イエスの十字架を仰ぎ見るときに、その苦しみと死の意味がなんであるかを知るとき、私たちの高慢で頑なな心は砕かれていく。これこそ御霊に導かれた真の悔い改めであり「心の割礼」そのものである。私たちが切り捨てるべきものが何であるか再度自らに問いかけよう。
■御言葉に対する応答の祈り
①神が人間の内面を見ておられることを確認しよう。
②十字架の前に悔い改める者となろう。
■次回説教
聖書箇所 ローマ3:1~8
説教題 「神の真実」
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