説教ノート No.6 2022.11.20
聖書箇所 ローマ人への手紙3章1節~8節
■序 論
これまでパウロは、自らは律法を得た選民との自負心を持つユダヤ人も、例外なく律法に違反している「罪人」であると指摘してきた。しかし、この箇所では、ユダヤ人と異邦人の区別が否定されたわけではなく、神が選民としてユダヤ民族を召した意味を明らかし、その上で神の真実、神の公正を問答形式で説明している。私たちも自分の信仰姿勢を内省しつつ、パウロの論理展開に聞き耳を立てよう。
■本論1 特権と責任 (3:1-2)
パウロの第一の質問は「ユダヤ人のすぐれている点は何ですか」である。意図を要約すると、ユダヤ人が異邦人と同じであるならユダヤ民族の立場は神の前にどんな意味がかるのかということである。この想定問答に、パウロは「ユダヤ人のすぐれたところは神のことばが委ねられている」と明確にそのポイントを答えている。「神のことば」とはまさに旧約聖書のことであり、そこには「メシア」即ち来るべき救い主の到来の約束が記されている。ユダヤ人は、この立場を「特権」と理解したが、これは「責任」が委ねられた立場であった。つまり御言葉に示された神の救いの約束を全世界の民族に伝え神の御業を進展させる「責任」のことである。しかし、ユダヤ民族は、その意味を見失い、自ら守れない律法を、特権意識を担保する道具にしていたのである。私たちも先に福音を聞き救い与った者でありながら委ねられている「責任」を放棄し、「特権意識」に埋没していないか、自問し警戒しなければならない。
■本論2 神の真実と人間の不真実 (3:4-5)
第二の質問は「ユダヤ人の不真実によって神の真実が無になるか?」である。これには「ユダヤ人が御言葉に約束された救い主を拒否するという不真実を行ったことによって、神の真実な救いは廃棄されてしまうのか」という意味がある。これに対してパウロはすべての人が偽り者であっても、神は真実でその約束は変わらないと答える。ユダヤ人が不真実な罪を犯し一時的に捨てられたように見えるが、やがて彼らも救いに入れられるとパウロは同胞の一人として確信するのである。11章29節にある「神の賜物と召命は、取り消されることがない」という言葉がそれを象徴していると言えよう。またパウロは、人間の不信実にも関わらず、神の側の真実は変わらないことを示すために、詩篇51篇ダビデの悔い改めの歌を引用している。王位の絶頂期、愚かな罪を犯して苦しむ彼が悔い改めた時、神の赦しとその真実を讃えた歌である。神の正義と救いは真実で決して廃されることがない。
■本論3 貫かれる神の真実 (3:6-8)
第三の質問には二重の問いかけがある。①人間の不義が神の義を現す機会を提供するなら、神が人間に怒りを下すべきではないのではないか。②人の偽りが神の真実さを現すことになるのなら、人間はさばかれる必要がないのではないか、という論理展開である。しかし、これは自分に都合の良い弁解をする罪人の口から出る言葉であると言えよう。これに対するパウロの答えは単純明解で「そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。」と断言する。神の正義と真実はどこまでも貫かれるが、人間は罪を犯すとそれを正当化しようと巧妙な論理を平気で展開し続ける。これは神の愛と忍耐を踏みにじる実に悲しむべきことである。今、私たちに必要なことは、自分の非を正当化する巧妙さではなく、真実な神の前に自分の罪を告白して悔い改める謙遜さではないか。
■結 論
信仰によって神の民とされた私たちにも御言葉が委ねられている。それは救いの「特権」の根拠であると同時に、宣教の「責任」である。この責任を忘れると神の真実から離れてしまう。常に救いの恵みを感謝し、謙遜に悔い改めの実を結んで主に仕えていきたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①御言葉が委ねられた責任を果たせるように。
②神の真実の前に謙遜になれるように。
■次回説教
聖書箇所 ローマ3:9~20
説教題 「義人はいない」
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