説教ノート No.4 2022.10.23
聖書箇所 ローマ人への手紙2章1節~16節
■序 論
1章後半において、パウロは人間の罪の問題を普遍し、全ての人が例外なく神から離反した罪人であることを指摘した。2章に進み、自分の罪をタナに上げて他人をさばく人間の高慢と愚かしさを指摘しつつ、そこに公平な神の審判が及ぶことを明らかにする。そして、自分の罪を悔い改めて神に立ち返ることを訴えるのである。私たちも自分の原罪を知り、人生の方向転換をする者でありたい。
■本論1 人のさばき、神のさばき (2:1-5)
先ずパウロは「弁解の余地はない」と人間の罪を指摘するがこれは誰に対するものか?「他人をさばく人よ」と呼びかけがあるだけである。これは、直接は選民意識の優越感から異邦人を卑下批判するユダヤ人を指し、引いては私たち自身をも含んでいると考えられる。人間は他人の非や罪を非難して裁きながら、実は自分も思いと行為において同じことを行い、自分自身を罪に定めているのである。そして、パウロは神から離反した者の姿を明らかにし、①神の慈愛、忍耐、寛容を軽んじ、②悔い改めを拒否するという傲慢で的はずれな生き方をしていると説明している。さらにそこには必ず神の怒りの審判が下されると警告するのである。私たちは相対的な「恥」の概念や尺度ではなく、絶対者の前にある「罪」を認め、それに対する神の裁きを畏れ、真剣な悔い改めに自分を向けることが必要である。
■本論2 神の公平 (2:6-11)
次に、パウロは人間の行いに対する神の報いについて語る。もちろん、これは救いが人間の側の善行との差し引きによって得られるという「行為義認」を教えるものではない。罪からの救いはあくまで十字架の贖いを信じる信仰によって与えられるのである。パウロは信仰義認の教理を貫きつつ、神が人間の全ての行為を知り、評価し、報いられることを強調していると言えよう。その公式は極めて単純で、①善を行う者には永遠のいのち、栄光と誉れと平和が与えられ、②悪と不義を行う者には神の怒りと憤りが下されるというものである。人間は自らの救いに関して何ら力を持ち得ないが、救いを与えて下さる神の前には自分の行為に責任を持たなければならない。私たちは神が公平な目で評価し、相応な報いを下さることを知って、ますます神を恐れ(恐怖でなく畏敬)、神に対しても、人に対しても誠実に生きるものでありたい。
■本論3 律法によるさばき (2:12-16)
この段落の終わりに、パウロは律法と神のさばきの関係を説明している。「律法」は神が選民イスラエルに与えた善悪の判断基準であり、彼らはこの絶対基準に従って裁かれるのである。それでは律法を持たない異邦人(私たちをも含む)はどうなるのか?パウロは同様であると語る。それはユダヤ人、異邦人を問わず、全ての人の心の中に「良心」(善良な心ではなく善悪の判断基準)が神によって刻まれており、それが律法と同じ役割を果たしているからである。それゆえ全ての人が神の裁きを不当することは出来ず、最終的にはキリストの再臨において主イエスご自身が真の審判者として全ての人々の隠れた全ての罪を明らかにして裁かれるのである。聖書は「人間には一度死ぬことと死後に裁きをうけることが定まっている」(ヘブル9:27)と厳粛に宣言している。私たちもこの事実を信仰によって受け止め、神と神の裁きを畏れ、神と人に、そして、自身に対しても誠実に生きたい。
■結 論
善悪の判断基準である「良心」に忠実に生きることは神の報いと祝福を得る鍵であるが、それが救いの根拠とはならない。原罪のゆがみの中にある「良心(善悪の判断基準)」も完全に自らを律することが出来ないからである。神の法廷で「汝の罪赦されたり」と無罪宣告を受けることが出来る者は、主イエスの十字架の贖いを信じる者のみである。聖書は「信仰義認」の教理を徹底して貫いている。
■御言葉に対する応答の祈り
①神を恐れつつ良心に忠実に生きられるように。
②悔い改めと信仰をいつも鮮明にできるように。
■次回説教
聖書箇所 ローマ2:17~29
説教題 「心の割礼」
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