説教ノート No.8 2020.8.16
聖書箇所 使徒の働き4章1節~22節
■序 論
足なえの奇跡とペテロの説教を契機に教会は一つの局面を迎える。それは感情的利害関係を根にしたユダヤ当局者から教会に対する迫害である。福音が伝えられる時、そこには何らかの反応が生じるが、それは時に攻撃、迫害のこともある。しかし、実はその困難と思える時こそ福音の真価が明らかにされる機会であることを知ろう。そして、弟子たちの姿に「信じる者の力」を学ぼう。
■本論1 福音との対立 (4:1-4)
美しの門で足なえの男をいやし、ソロモンの廊で十字架と復活を語るペテロの所に祭司やサドカイ人たちがやって来た。彼らは特に復活の説教に敏感に反応し、どう彼を止めさせようかと困り果てた。それは祭司を中心とするサドカイ派の教義が徹底した合理主義に立ち、霊魂の存在、死者の復活を否定していたからである。祭司たちには異端に見えるペテロがその説教を止めないので、強権を発動して逮捕し、ペテロを牢に捕らえしまったのである。キリスト教会が経験した最初の迫害と言えよう。福音が鮮明にされるところには必ず抵抗が生じると言っても過言ではない。しかし、福音自体に力があり、阻もうとするものを乗り越えて行くのである。事実、ペテロを通して福音を聞いた人々が、迫害の危機にも関わらず多数信仰へと導かれたことがその証しである。私たちも福音それ自体の力をさらに知って勇気を得、その勇気が知恵となり、私たちの証しの力、宣教の力としたい。
■本論2 この方以外に救いはない (4:5-12)
その翌日ペテロはサンヒドリン議会の尋問の場へと引き出された。議会にはサドカイ派ばかりでなく、復活を認めるパリサイ派の議員もいることから、尋問の内容は復活の是非ではなく、何の権威によって行ったか、その合法性と奇跡の根拠を問うものへと変化している。しかし、聖霊に満たされたペテロは毅然とした態度で、いやしの奇跡がイエス・キリストの権威とその御名によることを弁明した。ここには2つのメッセージがある。①主イエスの御名以外に救いはない。②人が救われるためには礎の石(かしら石)である主イエスに連ならなければならない。もいそうでなければ「かしら石」無き建築物が崩れ去ると同じに、キリスト無き人の人生はどんなに栄えていてもやがて崩れ去ってしまう。明確な福音の説教である。かつて十字架を前にして逃げ去ったようなペテロをも聖霊は造り変えて力を満たし、福音の弁明に用いられるたである。そして、神は私たちをも用いて下さる。
■本論3 神を恐れて、人を恐れず (4:13-22)
議会はペテロの答弁に返す言葉もなかった。それは2つの理由があったからである。①ペテロたちの大胆さ。無学(律法を専門に修めていないの意)な者がどうしてと思ったのであろうが、彼らが主イエスを誇りとし、聖霊に満たされることによって人の目にも大胆で力強く見えたのである。②足なえが自分の足で立っている事実。事実ほど強いものはない。説得力がある。救いの事実の証言も同様である。議会は尋問を終えるとペテロに説教を禁じる命令を出したが、彼は神に聞き従うべきことと、事実を隠すことは出来ないことを明確に語り、権力の脅しにも関わらず議会の要求を拒否した。国家の最高権威の前でも勇気をもって福音の弁明を貫く姿に、初代教会の戦う姿を見ることが出来る。寛容を徳としながら、信仰に関しては決して妥協しない厳しさを弟子たちの行動から学び取り、私たちも自分自身の信仰生活、そして、キリスト者としての生涯における基本的な姿勢としたい。
■結 論
迫害に直面した初代教会は、権力を恐れず、それに媚びることなく実に大胆に福音を弁明した。それは聖霊に満たされた彼らが主イエスの御名を誇りとし、救いの事実を自分のものとしていたからである。これこそ信じる者の力と言えよう。今、私たちも人を恐れることなく、神の全能を信じて自分を世に向けて生きていきたい。この方向転換をすれば聖霊は私たちに力と知恵を与えて下さる。
■御言葉に対する応答の祈り
①自分が経験した救いの事実を語れるように。
②人を恐れず、神に聞き従えるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒4:23~37
説教題 「心と思いを一つにして」
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