説教ノート No.46 2022.7.10
聖書箇所 使徒の働き28章1節~15節
■序 論
神は、私たちが直面する危機にも脱出の道を備えて下さると同時に、必ず目的地まで導いて志しを全うさせて下さる。私たちの目的地は、「使徒の働き」から学んだ視点からすると「福音を語る場」であり、最終的には「天の御国」である。私たちは、信仰生活の日々を、また人生の走るべき行程を全力を尽くして前に進み、「よくやった忠実なしもべよ」と神の称賛と栄冠を得る日を喜びのうちに待ち望む者でありたい。
■本論1 マルタでの証し① -蛇をもつかむ- (28:1-6)
パウロ達が座礁船を捨て必死で泳ぎ着いた所はマルタ島であった。イタリア半島の先端シチリアから南へ100キロの島である。ここでも神の守りと配慮とも言うべき出来事として、難破船の情報を知った島の人々が非常に親切に対応してくれ遭難した一行を手厚く保護してくれたのである。実はここでは面白い出来事があった。それは寒さから人々を守るために島人が用意してくれたたき火に、パウロが枯れ枝をくべると、その中にいたまむしが彼の手に取りつき嚙みついたのである。迷信深い人々は囚人服を着ている彼が人殺しの悪人で正義の女神が毒蛇で裁きを下したのであろうと囁いた。実に純朴、素朴な判断である。ところがすぐに毒が回って悶え死ぬと思ったにも関わらず、パウロに変化がないと状況は一変し、人々はパウロのことを「神様だ」と言い出したのである。この展開は、信じる者が「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害をうけず」(マルコ16:18)という、主イエスの約束の御言葉が私たちの心によみがえり迫って来ると言えよう。同時に、マルタ島の女神の裁きは迷信であっても、アモス9:2に記される正義の神の裁きは事実であり真実であることを忘れてはならない。
■本論2 マルタでの証し② -病人をいやす- (28:7-10)
ここではパウロによるもう一つの証しが行われている。それは島の首領プブリウスが遭難者たちを自宅に招いて手厚いもてなしをした時、彼の父が病床にふせっていることから、パウロは病人の頭に手を置いて祈り主の名によっていやした。この奇跡の話はたちまち島全体に広まり、多くの病人が運ばれ同じようにいやしの業が行われたのである。これもマルコ16:18で語られた復活の主イエスの約束の言葉どおりである。ここで行われた二つの事件によって主イエスの御力が雄弁に証しされ、主ご自身がパウロを通して生き生きと働いておられることを知ることが出来る。ここでこの事実を現在の私たちに適応するとどの様なことが考えられるだろうか。それは、私たちに与えられている聖霊の力は同じであり、十全であること。神の言葉である聖書が与えられている私たちは、奇跡を必要とせずに「福音を語る」ことで神の救いの御業を証しすることが出来ることを覚えたい。ことさら奇跡を強調して人々の心を支配する神秘主義的異端と一線を画し、私たちはパウロをはじめとする初代教会の使徒たちに続く者でありたい。ハレルヤ。
■本論3 ローマへ再出帆 (28:11-15)
さて三ヶ月間この島で越冬したパウロ一行は、出航を待っていたアレクサンドリアからローマに穀物を運ぶ別の大型船に乗り込み出発することになった。一路北上した船はシチリア島シラクサに三日間寄港し、イタリア半島先端のレギオンを経由して、ついにナポリ湾のプテオリに到着したのである。実に三千キロの航海の終わりである。さっそく主にある兄弟姉妹たちがパウロを暖かく迎えてくれ、彼はそのもてなしによって長い旅の疲れをいやし、大きな喜びと励ましを得た。ここナポリからローマまでは陸路で百八十キロの距離である。一週間の滞在後パウロはローマに向けて道を急いだが、ローマからも兄弟たちが出迎えに来てくれていた。感動的な感謝と喜びの対面である。パウロにとっては長い時間と犠牲を払ってやっとたどり着いた目的地であるだけに、感激と緊張に胸が高鳴ったに違いない。神は信じる者に志しを立てさせ、事を行わせ、時満ちて成就させて下さるのである。私たちも自らの道程をひたすら前に向かって歩み続けよう。ハレルヤ。
■結 論
ローマに立ったパウロ、彼は目的地に立ったがゴールしたのではない。むしろスタートしたのである。パウロに与えられたヴィジョンは世界の都ローマを拠点にして全世界に福音を満たすことであった。ここからグローバルな神の御業が進展していく。・・今から後も。
■御言葉に対する応答の祈り
①常にヴィジョンを抱いて前に進もう。
②全てのことに神の御手を認めよう。
■次回説教
聖書箇所 使徒28:16~31
説教題 「全世界に向けて」
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