説教ノート No.7 2020.8.9
聖書箇所 使徒の働き3章11節~26節
■序 論
前段、足なえのいやしの奇跡に人々は非常に驚き集まって来た。この奇跡はキリストの「救い」のしるしであったが、ペテロはますます大胆に救いの根拠である主イエスの十字架と復活について語り音を宣言した。主イエスを否み、ローマの剣を恐れ、人目を避けて萎縮した以前のペテロとは別人のようである。私たちは聖霊に満たされたペテロの姿に信仰の勇気を学びたい。
■本論1 栄光は主イエスに (3:11-15)
ソロモンの扉の前、群衆に対してペテロが先ず明らかにしたことは、いやしの業が自分達の力ではなく、主イエスの力によるという奇跡の根拠であった。もちろん彼らにとって人々の注目と賞賛は心地よいものであろうが、そこは信仰の鉄則、栄光は神のものである。キリストの証人となる者の心が自分の栄光を求めたら、人の思いが気になり本当に語るべき事を鮮明に出来ない。ペテロは己の栄光を求めず、イスラエルの民が救い主イエスを拒み、十字架に架けて殺したとその罪を鋭く指摘したのである。人を恐れ、人に媚びたらキリストの十字架は語れない。自分の誉れを求めたら人間の本質にある原罪は語れない。ペンテコステにおいて聖霊に満たされ、再創造されたペテロの態度は一貫していた。さらに彼はキリストの「復活」を語り、イエス・キリストがよみがえって生きていればこそ、足なえのいやしが実現したことを示そうとしたのである。栄光は神に。私たちも人を恐れず、十字架と復活を明確に語るものでありたい。
■本論2 信仰と悔い改めによって (3:16-20)
いやし(救い)の根拠が神の側、即ち「イエスの御名」にあることを示したペテロは、続いて、救いを受ける人間の側の条件について語った。それは先ず、第一に「御名を信じる信仰のゆえ」である。自分を神であるかのように過信し、全てを己の力で処理しようとする態度から、罪に対して何ら力を持たないことを率直に認め、神の全能を信じ、十字架を仰ぐことが信仰である。第二の条件は悔い改めて神に立ち返ることである。悔い改めが神への方向転換であることは周知であるが、ここには勇気ある決断が必要となる。過去の自分に執着していては何も変わらない。しかし、人間の側の救いの条件である信仰と悔い改めにも神は深く関わって下さり、主イエスが信仰を与え、聖霊が悔い改めへと導かれるのである。人間の側の努力や修養、あるいは対価として支払う金銭ではなく、神の側から与えられる賜物と言えよう。私たちの信仰が「恵みの信仰」であることの意味である。
■本論3 預言の成就-祝福への導き- (3:21-26)
ペテロは救いの根拠と条件を明らかにした上で、旧約の預言者の言葉を引用しながら救い主の到来と神の民イスラエルへの祝福について続けて語った。それはモーセを初めとする預言者たちが救い主を待ち望み、それが主イエスにおいて成就したこと。さらに、その祝福がアブラハムの子孫であるイスラエルの民に約束どおり与えられるというものである。しかも、それは彼らイスラエル民族が神の祝福である救いの業を全世界に伝えるという重要な使命を伴うものである。それだけにイスラエルの民は、約束された神の祝福をしっかりと受け止め自分のものとしなければならなかったのである。十字架を拒否したイスラエルの民は、その事実を悔い改めて信仰に立ち返る他に神の祝福を回復する道は他になかったのである。私たちは、私たちに賜物として向けられている神の祝福をどのように受け止めているだろうか。これを無視してはならない。これを拒否してはならない。
■結 論
ペテロの説教は、十字架と復活を示し、信仰と悔い改めを求める勇気ある宣言であった。神の祝福の道、罪と滅びに救いの道を開いたのである。神は、私たちをも救いの恵みをもって祝福し、さらにその祝福を拡大させる器としようとしておられる。恵みを覚えながら福音を宣言する者となりたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①十字架と復活を鮮明に語れるように。
②救いの恵みをいつも感謝できるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒4:1~22
説教題 「信じる者の力」
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