説教ノート No.23 2021.4.18
聖書箇所 使徒の働き13章13節~52節
■序 論
第一回伝道旅行、キプロスにおいて主イエスの福音を宣べ伝え、魂の救いをその目に見たパウロたち一行は、さらにキプロス西側のパポス港から出航してパンフィリア州都ペルゲに着き、そこから陸路北上しピシディアのアンティオキアに到着した。この道程も険しい山道が長く続く困難の前進であった。この間に若いヨハネ(マルコ)は弱音を吐いてエルサレムに帰ることになるが、福音の宣教は後退しない。
■本論1 パウロの説教-神の救いの計画- (13:13-25)
ベルゲからピシディアのアンティオキアまで内陸を北に直線で約150キロ、パウロたちは休む暇も無いようにここでも早速伝道の機会が与えられた。会堂司(管理者)からの依頼を受け、礼拝に集った人々(ユダヤ人と神を敬う異邦人たち)に向けて聖書から説教をするチャンスを得たのである。そこでパウロは立ち上がり、朗読された「律法」と「預言者」すなわち旧約聖書を引用して福音の説教を始めた。彼の論点の第一は神の救いの計画であり、旧約聖書の歴史を追いながら、救い主に向かって神の御業が展開していることを明らかにした。それは、アブラハムに始まる族長時代、エジプト脱出、荒野の彷徨、約束の地カナン定着、士師の時代、ダビデに至る王国時代まで、この千年に及ぶユダヤ民族の歴史の中に神の恵みと導きが示され、その記述と出来事の一つ一つが約束されたキリストの来臨への備えであり、やがてダビデの子孫として生まれた主イエスにおいて神の救いの約束が成就したと説明したのである。明確な福音宣教のメッセージである。
■本論2 パウロの説教-主イエスの死による救いの完成- (13:26-41)
第二の論点は、神の救いの業が主イエスの十字架と復活によって完成したことである。福音の中心点と言えよう。先ずパウロは、神の民として選ばれていたユダヤ民族が救い主を拒否して殺したという恐るべき罪の事実を指摘する。罪の自覚と悔い改めのないところに神の救いはあり得ないからである。私たちが福音を聴くとき、私たちも自分自身の内面を直視することなしに福音の力と価値を見出すことは出来ない。さらにパウロは、罪のない方が十字架に上げられたのは赦しの根拠となる贖いの代価が支払われたことを意味すると言明し、しかも神はこの主イエスを死者の中からよみがえらされたと「復活」を宣言するのである。この復活こそ十字架の救いが確かであることを保証し、人間の最終的な敵である死に対する完全な勝利を意味と言えよう。
この福音の中心点を語ったパウロは、聞いた人々に「信じる者はみな、この方によって解放されるのです。」と信仰の決断を迫った。聞くことに始まる救いは、聞くだけに終わったら何の意味もない。「悔い改め」と「信仰」の応答が明確なところに神の救いは成就するのである。同時に、聞いた福音を無視する者に厳しい裁きがあるというハバククの預言を忘れてはならない。
■本論3 福音に対する受容と拒否 (13:42-52)
最後に、福音を聞いた人々の態度に明確な違いがあったことに注目しよう。多くの異邦人たちは自分に語られた聖書の解き明かしに心を開き、悔い改めて信仰を告白したが、逆にユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロをののしるばかりでなく、権力者を動かしてアンティオキアから追い出したのである。福音に対する「受容」と「拒否」の違いは、それぞれ彼らは後に全く別のものを自分自身に刈り取ることになる。ユダヤ人の福音拒否は自らが永遠のいのちにふさわしくない者であることを決めたのであり、救いの機会は遠ざけられ、福音はいよいよ異邦人に向けられるようになっていくのである。かたくなな心は、恵みとして与えられる救いを自らの拒否で失ってしまう。実に悲しいことである。福音に対する人間の態度、その選択は「需要」か「拒否」の何れか、厳しく二者択一である。そこに「両立」や「中庸」はあり得ない。「無関心」すら「拒否」と同じことである。私たちが神の御声に聴くとき、キリストの福音に触れるとき、心を開き、喜んで受け入れる者となりたい。
■結 論
私たちは人を恐れず、また人に媚びることなく福音をはっきり語る者となりたい。結果は神のもの。聞く人の「受容」と「拒否」の選択と結果は、その人自身の責任によるものである。だからこそ私たちが福音を語る時には、説得力や弁証力によるのではなく、福音を聴く人の心が神の御言葉に対して幼子のように素直な心になれるよう祈ることが大切である。救いは神のもの。私たちも救霊と福音宣教に熱心な者になりたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①先ず自分自身が御言葉に心開けるように。
②結果を委ねて福音を語れるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒14:1~28
説教題 「切り開く宣教」
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