説教ノート No.12 2025.2.23
聖書箇所 コリント人への手紙第一5章1節~8節
■序 論
パウロはこれまでコリント教会の分裂・分派を憂い、それを指摘して高慢を悔い改めるように、キリストにある平和と一致を回復するように勧めて来た。次いて、さらに教会の内に潜むより深刻な倫理的・道徳的問題に深くメスを入れて聖なる公同の教会の再生を勧告している。教会は常に世俗化の波にさらされて存立しなければならない。しかし、それに妥協して聖さを失えば教会はいのちを失うことになる。
■本論1 不品行と現状への妥協 (5:1-2)
先ず、パウロは単刀直入に「あなたがたの間には淫らな行いがあり」(5:1)と指摘している。この「淫らな行い」は前訳では「不品行」とあり「売春」まで意味している。新約聖書の中では種々の性的乱れを意味する言葉である。実はコリント教会の中には、父の妻と姦淫にふける者がおり、知らず知らずのうちに教会内をソドムの罪が蝕んでいたのである。人間の基本的欲求を自制することは簡単なことではない。信仰の冷静さを失えば、誰もが欲求と誘いの波に飲み込まれしまうことを私たちも忘れてはならない。
次に、パウロがそれ以上に問題としたのは、コリント教会がこの問題に対してとった態度である。「そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかった」(新改訳第三版訳5:2)との指摘は、教会が内にある罪の現実を悲しむことをせず、容認・妥協し、教会の尊厳や聖さを自ら放棄してしまったことを意味している。教会の徳としての寛容と非寛容を本末転倒にさせてはならない。
■本論2 教会の聖さを守るために (5:3-5)
次に、パウロは、罪に対して曖昧なコリント教会の態度と対照的に、「そのような行いをした者をすでにさばきました。」(5:3)と彼自身の判断をはっきりと表明している。この「さばき」は単なる彼の感情の言葉ではない。神の教会の秩序に従って戒規を執行し「除名」することを意味している。もちろんこれは切捨て処分ではない。マタイ18章15節以下にあるように、教会が回復を願う公的手続きとして当該者に悔い改めを勧告し、それでも彼が悔い改めることを拒否する場合に、教会の純潔と徳を高めるために戒規の執行がなされる必要があることを教えるものである。これは「鍵の権能」が委ねられた教会の大切な務めと言えよう。しかもパウロは戒規の執行においても魂の救いを第一として神に委ねていることにも注目したい。私たちも「愛」「寛容」と「妥協」「黙認」を混同させてはならない。神の「愛」と「義」が二律背反でないように、私たちも聖なる神が臨在する共同体、教会エクレシアを作り上げていきたい。
■本論3 古きパン種を除け (5:6-8)
最後に、パウロはコリント教会の兄弟姉妹に対して「古いパン種をすっかり取り除きなさい。」(5:7)と勧告している。この「古いパン種」は何を指すのであろうか。これは単に罪を犯した個人を指すというより、不品行の罪を黙認・曖昧にするコリント教会の霊的姿勢を指摘する表現である。些細とも思える肉の原理を徹底的に排除しなければ、教会の聖さは気付かぬうちに侵食され失われてしまう。さらにパウロはこの大切な勧めを旧約の過ぎ越しの祭りを例に説明している。それは「あなたがたは種なしパンなのですから。」(5:7)とコリント教会に呼びかけ、その根拠が「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」(5:7)と説明して、キリストの十字架こそ罪から離れ、その束縛から解放される力であると強調したのである。その上で「誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」(5:8)と喜びの礼拝、誠の聖餐へと招いているのである。私たちもキリストの十字架によって古いパン種が取り除かれ、罪の支配から解放された「種なしパン」として存在していることを覚えよう。義なる神、聖なる神を信じ、キリストの十字架を信じる信仰によって義と認められた祝福を失う者であってはならない。
■結 論
個人の信仰が聖化の過程を経てやがて完成するように、地上の教会も決して完全ではなく、負の歴史をも経て聖化の途上を歩み行くのである。同時に、キリストのみからだである聖なる公同の教会は既に完成されたエクレシアである。それに連なる者として希望を仰いで歩んで行きたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①神を恐れ罪に対する妥協がないように。
②悔い改めに率直で、礼拝の姿勢を整えよう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント5:9~13
説教題 「教会の聖さのために」
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