説教ノート No.26 2021.5.30
聖書箇所 使徒の働き15章22節~41節
■序 論
エルサレム会議の決定は神学的事柄ではなく、お互いに相手をつまずかせないよう最低限のルールを確認し多様性を認めつつキリスともにある一致を得ることであった。キリストのみ崇められる教会には愛の秩序が生まれ、肉の自己主張が後退して行く。ここにキリストのみからだなる「エクレシア」が形造られていくのである。そして、このエルサレム会議とその決定がが、さらに福音を伝える情熱と祈りへの大きな原動力となったことを学びたい。
■本論1 アンテオケ教会への知らせ (15:22-29)
エルサレム会議で採択された合意内容は、直ちにアンティオキア教会を始め諸教会に知らされることになった。そこで議会は公式文書を整え、預言者でバルサバと呼ばれるユダとシラスの二人を使節として立てパウロとバルナバに同行させた。その書面内容は、エルサレム教会の釈明から始まり、①異邦人に律法遵守を説いた「ある者たち」の言動は教会の公式見解ではないこと。②使節としてユダとシラスを送り口頭説明をさせること。③会議で確認された4項目の戒め以外は異邦人に律法要求をしない。④エルサレム会議の決定は聖霊と教会との共同決議であること。これらの公式見解によって福音宣教はますます異邦人社会へ、全世界へ拡大する基盤が固められたと言えよう。聖霊の導きによるものである。教会はどの時代においても聖霊の導きによって神の御心を求める真摯な姿勢で教会会議を開催すべきこと忘れてはならない。民主主義は人間の英知が犠牲を払って生み出したシステムであるが、それが権力と利害の闘争であれば崩れ去るバベルの塔を築くだけになってしまう。私たちも聖書のみことばと聖霊に導かれつつ豊かな教会会議を行うものでありたい。
■本論2 励ましと喜びに溢れて (15:30-35)
アンティオキアに着いた一行は教会にエルサレム会議から託された文書を渡した。それを読んだ人々は喜びをもって会議の決定を受け入れ、4項目の禁止事項が異邦人もユダヤ人のつまずきにならないよう愛の配慮が期待されていることを十分に理解した。これまで一方的な律法の押し付けを恐れていた彼らに「どんな重荷も負わせない」という会議決定は大きな励ましとなり、その信仰を力づけたのである。この経験はアンテぃオキア教会に、律法から解放された自由の喜びを増し加え、信仰の成長と、大胆に福音を証しする力を与えたことであろう。私たちが福音によってキリストにある自由と、律法の束縛からの解放を経験する時、自身の魂の内にも、教会の中にも喜びが満ち溢れていくのである。そして、それは何人によっても失われることがない。また、互いに赦されている自覚は、相手への愛と配慮を生み出し、そこにエクレシアの秩序が培われていくのである。これも聖霊の働きによると言えよう。
■本論3 さらに福音を (15:36-41)
教会の問題が解決するとパウロは第二回目の伝道旅行を企画した。今回は、先の伝道旅行で誕生したガラテヤやアジアの諸教会を訪問し、様々な試練や迫害に孤軍奮闘している兄弟たちを励ますことを目的としていた。しかし、出発を前にしてマルコの同伴をめぐってパウロとバルナバが激しい反目をしたのである。パウロは伝道を途中放棄するような者はふさわしくないと拒絶し、バルナバは彼にもう一度チャンスを与えて信頼回復を助けようとしたのであろう。物事に真剣に取り組もうとする時、そこに意見の違いが対立することがある。問題意識に蓋をして物事を曖昧にするのではなく、単なる非難や中傷でなければそれは無意味ではない。結果、パウロはシラスと陸路ガラテヤヘ、バルナバはマルコとキプロスへ出発し、宣教の働きが二方向へと広がり、福音はより広く宣べ伝えられることにつながったのである。このパウロとバルナバの考え方の相違や、その対立にも聖霊なる神の支配と計画が隠されていたことに驚かされる。私たちも、神の前に自分がどうあるべきか、何を言うべきか、人を恐れず神を畏れて、自分自身に問いかける者でありたい。そして、互いに神の導きを求め合うものとなろう。
■結 論
神のなさることに何一つ無駄なことはない。人間の弱さを用いて益に変え御業を行われるのである。罪から解放された自由を喜び、相手に対する愛と配慮を失わず、自分の信ずるところに向かって信念を貫くことの出来る自律したキリスト者に成長・成熟していきたいものである。
■御言葉に対する応答の祈り
①律法から解放されていることを感謝しよう。
②互いに愛することの実を結ぼう。
■次回説教
聖書箇所 使徒16:1~15
説教題 「マケドニアの叫びに応えて」
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