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「御名を呼び求めよ」

説教ノート No.26                      2023.9.3

聖書箇所 ローマ人への手紙10章14節~21節


序 論

 これまでパウロは、神の選びの器とされていた同胞イスラエル民族に対して、律法順守による行為義認ではなく、信仰義認の意味について繰り返し語り強調してきた。さらに続くこの段落では、心を閉ざしてキリストの十字架と復活を拒否し、福音に聞き従わないイスラエルの不信仰を厳しく糾弾しつつ、それでも彼らに向けられる神の愛と招きについて教えようと言葉を選んで筆を進めている。私たちも「語ることの大切さ」と「聞くことの責任」について自問しつつ御言葉に聴こう。


本論1 宣べ伝える人がなくては (10:14-15)

 先ずパウロは、「律法義認」の呪縛から解き放たれ「信仰義認」の恵みに導かれるための条件について、14節において「呼び求める」「信じる」「聞く」という鍵句を逆説的に用いて説明している。人が信じるためには何が必要か、そのステップは、①主の御名を呼び求めて救われるためには、キリストがどういう方かを理解し信じなければならない。②信じるためには、その内容を聞かなければならない。まさに「聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか」である。③聞くためには、宣べ伝えなければならない。という順序が必要だというのである。そして、15節ではさらに論理を発展させ、福音を宣べ伝えるためには、遣わされなければならない。と論理を展開させパウロの宣教論を語っている。福音が伝えられるためには宣教の連鎖性を大切するということである。特に注目したいことは「遣わされる」は「使徒」と同意であり、パウロは自らの派遣を、主イエスと主の委託を受けた教会から受けた派遣であることを意識していたに違いない。使徒の働きに記録されているパウロの道程や言葉にもそのことが明らかで、彼の同胞愛と異邦人への使徒とされた自覚がはっきりと示されている。私たちも、先に神の恵みによって「聞いて」「信じた」者として、福音を宣べ伝えることの大切さを意識して宣教の情熱を奮い立たせて神の派遣に応えていく者でありたい。私も十字架と復活の福音を語る口を閉ざしてはならない。。


本論2   信仰は聞くことから始まる (10:16-18)

 次にパウロは、選民イスラエル民族がキリストの福音を聞いた時の態度とその問題点について冷静に指摘している。それは16節に「しかし、すべての人が福音に従ったわけではありません。」とあるように、確かにイスラエルはその耳でキリストの福音を聞いている。しかし、彼らの全てが信じたわけではないと言い切っている。確かに、ある者は悔い改めと信仰を告白し、ユダヤ人キリスト者として新生した者も多数いたことは使徒の働きの記す通りである。しかし、大半のユダヤ人たちがそうではなく、民族としては福音を拒否し、旧約聖書が預言したメシアを見出すことが出来なかったのである。パウロはこの事実を示すために「私たちが聞いたことを、だれが信じたか」というイザヤの言葉を引用し、彼らの十字架へのつまずきを指摘していると言えよう。確かに信仰はキリストの言葉を聞くことから始まるが、ではユダヤ人の耳にはその福音が聞こえなかったのであろうか?とパウロは皮肉を込めて問いかけている。もちろん否である。詩篇19篇が示すとおり、福音は「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いて」いるのであって、誰も聞いたことへの責任を弁解することはできない。私たちはイスラエルの失敗を繰り返さず、砕かれた謙遜な心でしっかりと御言葉を聞き、それに従うものでありたい。これが信仰の原点である。


本論3 神の恵みは全ての人に (10:19-21)

 最後にパウロは、イスラエルは福音についてそれを知らなかったのか、あるいは聞きはしたが理解していなかったのだろうかとの質問を投げかけている。そのいずれも否であり、「あなたがたのねたみを引き起こし・・・怒りを燃えさせる。」(申命記32:21)節のモーセの言葉や、イザヤ「私を探さなかった者たちに私は見出され、・・自分を現した。」(イザヤ65:1)という預言の言葉を引用してそれを明確に否定している。つまり、パウロはイスラエルが異邦人たちの救われるのを見て妬んだことからも、彼らが福音の内容を知っていたことが明白であると指摘しているのである。どんな言い訳をしてもイスラエルが十字架の福音を拒否したことを正当化することは出来ず、また弁解もできない。しかし、驚き、感謝すべきことに、パウロは21節にあるように「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」(イザヤ65:2)という神の語りかけの言葉を引用し、イスラエルの神がその民を辛抱強く、愛しんで招いておられることを強調するのである。それは主イエスによる放蕩息子のたとえに登場する父のように、失われた者の回復を待ち続ける姿と重なると言えよう。しかも、この招きはイスラエル民族のみならず、全て民族、全ての人々に開かれているのである。私たちはこの神の恵みを無駄にしてはならない。


結 論

 「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」なんと素晴らしい招きの言葉だろうか。そして、私たちに、あなたに語りかけられた神の言葉である。さらに、この神の招きに応えて十字架と復活の福音を信じた者には、一方的な救いの恵みを先に得た者としてその事実を伝える「宣教」の責任が委ねられていることも覚えよう。私たちも「良い知らせを伝える人たちの足」として十字架の福音のために誇りと喜びをもって労する者でありたい。ハレルヤ。

 

御言葉に対する応答の祈り

①万民に開かれた神の救いに感謝しよう。      

②福音を運ぶ足を強くし、救霊の業に励もう。  

 

次回説教

 聖書箇所 ローマ11:1~10

 説教題 「恵みは失せず」


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