「復活の希望」
説教ノート No.35 2026.8.30
聖書箇所 コリント人への手紙 第一15章19~49節
■序 論
パウロはコリント教会において復活を否定する思想に真っ向から立ち向かい、キリストの復活の事実を極めて論理的に弁明している。彼の論点は、もし復活がなければ私たちには希望がなく、未だに死の恐怖に縛られる者である。しかし、キリストの復活によって死は滅ぼされ、しかもキリスト再臨は私たちの栄化の時となり、復活のからだに変えられると約束されているのである。
■本論1 主イエスの復活にあずかる (15:29-34)
先ずパウロは、キリストの復活とそれを信じる者が受ける洗礼バプテスマとの関係について教えている。「死者のためにバプテスマを受ける」とは聞きなれない言葉である。代理洗礼ということであろうが、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」(ローマ6:4)という洗礼の霊的意味とは異なるものである。むしろ自らが死ぬべき者であることを意識し、よみがえりの希望をもって生きる者は、ギリシア文明の爛熟期にあった快楽主義、刹那主義、世俗主義に陥ることなく生き、日常生活を送ることが出来るのである。そうであるからこそパウロはコリント教会の人々に「目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。」(15:34)と勧めたのである。私たちもキリストの十字架と復活の福音を信じて救いに導かれ、復活の希望に生きる者に相応しく歩みたいものである。
■本論2 栄光のからだに (15:35-42)
次にパウロは、復活の内容について語っている。ギリシア哲学・思想の影響を受けた人々は徹底して復活を否定しているが、彼は自然界の生命のあり方を例にして復活の事実を説明するのである。例えば、麦などの穀物の種は地に埋められなければ(死を象徴)決して芽を出し、実を結ぶことはできない。それと同様に、地上の肉のからだは死んで葬られて、やがて天上のからだの栄光の姿に変えられていくというのである。全ての被造物を造られた創造の神のみが「復活」を可能ならしめ、私たちにもその「いのち」と「栄光のからだ」を与えて下さるのである。40節に「天上のからだの輝きと地上のからだの輝きとは異なり」との表現にも注目しよう。今聖化の途上にある私たちは、この肉体の現実(健常と障害、健康と病弱、若さと老い、制御と混乱・暴走)に翻弄されるが、やがてそこから解放され、キリストの栄光のからだと同じ復活のからだに変えられることが約束されている。私たちはこの時にあこがれ、希望を仰いで生きる者でありたい。
■本論3 キリストに似たものとして(15:43-49)
最後にパウロは、私たちがやがて変えられる復活のからだがどのようなものかを教えている。それは「栄光あるもの」(15:43)「力あるもの」(15:43)「御霊に属するからだ」(15:44)という表現で説明さているが、これらは死して土に帰す肉のからだには決してない特徴であり、悔い改めてキリストの十字架と復活を信じる信仰によって罪赦され、義と認められた者に与えられる神の賜物と言えよう。さらに驚くべきことはパウロが、キリストを信じる者たちの復活後のからだについて「天に属する方に似ています」(15:48)「天に属する方のかたちを持つ」(15:49)という表現で説明していることで、これはイエス・キリストの栄光の姿に似せられること以外の何ものでもない。その時には、もはや心身を病むこともなく、罪を犯すこともない、矛盾や制約からも解き放たれるのである。そして、決して滅びることなく、復活のからだに変えられ、永遠のいのちに生かされることをしっかり受け止めたいものである。変えられることを意味している。今、私たちはどうだろうか。やがて滅びる肉の欲求を満たすことだけで生活していないか。復活のか希望を見失ってはいないか自問してみよう。そして、いよいよ復活の希望に立とうではないか。
■結 論
この世において生き、生活し、信仰生活をたどる期間、私たちは様々な試練、誘惑、矛盾、悲しみを経験する。しかし、復活信仰、よみがえりの確信に立つとき、私たちの心に必ず神からの勇気と力が与えられ、落胆から希望を仰ぐ者に変えられるのである。そのためにキリストから決して離れず、栄化の祝福を目指して聖化の途上をひたすら完成を目指して歩もうではないか。
■御言葉に対する応答の祈り
①復活の希望を仰いで信仰の歩みを進めよう。
②新生した者にふさわしく主と共に生活しよう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント15:50~58
説教題 「死は勝利にのまれた」
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