説教ノート No.31 2021.9.12
聖書箇所 使徒の働き18章1節~17節
■序 論
パウロはアテネからコリントへ進んだ。ここはアカイア州の州都で商業の中心地、アテネが文化の薫り高い都市であったことに比べると、ここは富と肉欲をむさぼる町であつたと表現することが出来る。コリンティアン(コリント風に振舞う)という言葉が不品行を意味するほどであった。しかし、パウロはこの乱れた町コリントにこそ福音が必要と確信してそこに立ったのである。ここに神の派遣の意味、宣教の使命を再確認しよう。
■本論1 同労者アキラとプリスキラ (18:1-4)
驚くことにⅠコリント2:3を見ると、パウロがコリントの町を訪れた時の心境を「私は、弱く、恐れおののいていました。」と記している。彼の心中を想像してみると、ソドムとゴモラを思わせるような巨大なコリントとそのエネルギーに対して、いかに自分自身の存在と自分の力が小さく弱いものであるかを痛感していたに違いないし、あるいはギリシアにおける働きと知的論争に疲労困憊していたかも知れない。考えてみれば当然であろう。しかし、この気落ちしたパウロを励まし伝道へと向かわせたのが、アキラとプリスキラ夫婦の存在であった。彼らはクラウディウス帝のユダヤ人排斥政策によってローマからの移住を余儀なくされ、この地で主の働きに励んでいたのである。早速パウロは天幕職人をしている彼ら共に、自分も働きながら伝道をすることにしたが、この出会いは生涯の同信、同労の友を得ることになったと言えよう。神は主の働き人を励ますために、時にかなってふさわしい協力者を与えて下さる。無論、聖霊ご自身が私たちの真の助け手である。
■本論2 恐れず語れ (18:5-11)
テモテとシラスがコリントで合流すると、パウロは天幕職人アキラとプリスキラとの仕事をやめて伝道にのみ専念した。ここでも同胞ユダヤ人たちに福音を語ることから始めるが、残念ながら彼らは暴言を吐いてキリストを拒否した。結果、救いの御業は異邦人の方向へと進むのである。パウロが巡回した先でのユダヤ人たちの福音に対する反応パターンと言えよう。パウロにとって同胞たちの拒否は心の痛みであったに違いない。しかし、その結果は福音を語る者の責任から離れる。一方、会堂管理者クリスポとその家族をはじめコリントの人々の中から多くの信仰に導かれる者が起こされるようになったことも事実である。この時パウロの心には救霊の喜びと共にユダヤ人からの攻撃がさらに激しくなる予測があったことだろう。しかし、聖霊は語りかける。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」と。主が共におられ、救いの民をすでに備えておられるという約束は、福音を宣べ伝える者にとって大きな励ましであり、力である。私たちの遣わされる所においてもこの約束は確かである。
■本論3 神の守りの御手 (18:12-17)
案の定、異邦人の救いを見たユダヤ人が妬みに燃えてパウロを激しく攻撃してきた。法廷に引出し、非公認宗教を広める者として総督ガリオに訴えたのである。しかし、彼は不正事件や悪質な犯罪ではないとして訴えを却下してしまう。ガリオの判断は、キリスト者はユダヤ教の一派とも見えるから宗教上の問題は自ら処理するようにというものである。政教分離を明らかにする優れたローマ法とガリオの賢明さによる。ユダヤ人からの迫害が転じて伝道の好機となった。この法廷における裁定によって、キリスト教もユダヤ教と同様、ローマ法の秩序のもとに容認されたことにもなり、後に皇帝ネロの迫害が始まるまでの12年間、ローマ帝国における伝道が自由に出来るようになったのである。私たちは、自分が直面する問題の渦中で、そこにある神の計画や業を見極めることが出来ない時がある。しかし、神のなさることには必ず神の側の意味と順番があることを忘れてはならない。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」という箴言3章11節の御言葉に励まされ、現実の生活の中における様々な試練や困難においても、神の御業に期待して前に向かって進みたい。
■結 論
神の働き人、福音の働き人の行く所には、必ずそこに先立つ神の臨在がある。そして、必要な協力者の存在が備えられている。それゆえ私たちも恐れてはならない。当初、自分の弱さを吐露し、力の無さを嘆いたパウロが1年6か月の長期にわたってコリント伝道を続けられた理由もここにある。私たちも十字架の福音を誇り、信仰告白を鮮明にして生きる者でありたい。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①全能なる神に常に信頼して証しが出来るように。
②良き協力者が与えられるように祈ろう。
■次回説教
聖書箇所 使徒18:18~28
説教題 「神のみこころなら」
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