説教ノート No.13 2025.3.9
聖書箇所 コリント人への手紙第一5章9節~13節
■序 論
教会の存在の証しはその聖さにあると言っても過言ではない。教会に聖さが失われたら教会は自らその本質を失ったと言うことも出来る。果たして教会の「聖さ」とはどういうことであろう。私たちが誤解してはならないことは、教会に連なる者が品行方正で聖人君主のようになるということでは決してない。主イエスの十字架にのみ教会の聖さの根拠があることを見失ってはならない。
■本論1 世との関係において (5:9-10)
先ずパウロは、この第一の手紙以前にコリント教会に対して書き送った手紙があり、その中で教会の兄弟姉妹たちに対して「淫らな行いをする者たちと付き合わないように」(5:9)と忠告していたようである。これは教会の世俗化を警戒するようにとの言葉であるが、実はこの言葉の意味を曲解する人々がおり、「世この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないように」(5:10)と解釈して言いふらし、教会を混乱させていたようである。もちろんパウロが世との関わりを断って隠遁生活を勧めていたわけではない。おそらくパウロを快く思わぬ人々が、パウロの忠告を故意に極端なものに劇画化し自分の非を正当化していたのであろう。私たちはすでに世から切り放されて「聖」とされた存在である。しかし、同時にこの世に遣わされ「世の光」「地の塩」として生きる者であることを見失ってはならない。むしろこの世との関わりを大切にし、地に足の着いた生活をする証し人になりたいものである。
■本論2 教会の内において (5:11)
次にパウロは、彼の真意について説明を続け、コリント教会における人間関係上の誤解を解き、信仰生活上の混乱を収めようとしている。時に言うべきことは辛くても忍耐して言わなければならないことがある。パウロは自分の意図したことは「兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」と、その真意を説明しているのである。つまり厳しく絶縁・絶交を勧める対象者は、あくまでも「兄弟と呼ばれる者」であり、教会内でのことである。教会は愛の美名に隠して罪を黙認してはならない。人情、なれあいで十字架の救いを曖昧にしてはならない。ひたすらキリストの十字架を仰いで感謝することこそが教会の聖さなのである。教会は外(世)に対し徹底して自らを開き、十字架の救いを指し示す同時に、教会の内においてはエクレシアの純潔と建徳のために罪を否とする厳しさが求められる。
私たちも寛容と非寛容の区別とその判断を鮮明にし、ここにキリストのみからだを建て上げていきたい。
■本論3 3 神の前において (5:12-13)
最後に注目したいことは、パウロが教会内の不徳の徒に対しては絶交を厳しく求めながら、世の人々と、その関わりについてはいっさい云々していないことである。その理由を彼は「外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。」(5:12)、「外部の人たちは神がおさばきになります。」(5:13)と説明している。つまり教会の厳正な戒規の執行は、教会の徳を立て、魂を悔い改めに導くものであり、世にある悪に対しては最終的に神ご自身がそれを裁かれるのであり、教会はその神の審判に委ねるべきことを教えているのである。しかし、誤解してはならない。これは教会が世に無関心であれということではない。こと救霊への思い。この世に対する福音の宣教において熱心でなければならない。教会と、これに連なる私たちが「地の塩・世の光」であること、そして、その存在意義はここにあると言えよう。
■結 論
教会はまさに「世の光」としてこの世に存在するものである。また光源をキリストとする燈台にも例えられる。その反射板が汚れていては光は遠くへ届かない。同様に「聖さ」が教会のいのちであり、この世が暗ければ暗いほど世の人は光を必要としている。私たちもこのことを自覚して教会の聖化のために祈ろう。そして、「世の光」としてキリストの輝きをより遠くまで反射させる者でありたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①教会の聖さのために祈ろう。
②世の光としてキリストの光を輝かせよう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント6:1~11
説教題 「真のさばきは」
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