説教ノート No.41 2022.5.29
聖書箇所 使徒の働き24章1節~27節
■序 論
「使徒の働き」の学びはいよいよ大詰め。これまで多くの霊的教訓を得てきた。私たちが不本意な事に直面した時、心にはどんな思いがあるだろうか。不平をぶつけて終わるか。あるいはそこに神の計画を信じて出来る最善を尽くすか。その結果の違いは明白である。 「 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:4)は、私たちに信仰の結実とその連鎖を教えている。
■本論1 不当な訴え (24:1-9)
ユダヤ人による暗殺計画の危機に、パウロはエルサレムから地中海沿岸のローマ都市カイサリヤに移送されローマ総督フェリクスのもとに保護された。驚くことに、そこに大祭司アナニヤが弁護士テルティロを伴い追って来たのである。もちろんそれは言うまでもなくパウロを告訴して彼を抹殺するためであった。事の展開を見ると、雄弁な口を開いたテルティロの論告は三点からなっていることが分かる。第一はパウロの人間性への指摘で社会を乱す忌み嫌うべきペスト菌的存在である。第二はユダヤ教の新興異端ナザレ派の首領で狂信的政治運動をしかねない危険人物である。第三は異邦人を神殿に連れ込み聖なる宮を汚そうとするユダヤ教の破壊者。このテルトロの訴えは、パウロがユダヤ社会に対しても、ローマ帝国に対しても政治的、宗教的にも極めて危険人物であり、ユダヤ法においてもローマ法においても有罪は避けられず、極めて厳しい裁きに処せられなければならないと強調したものである。法的にも、宗教的にも、いかにも論理性を装い、パウロを罠に追い込もうとする巧妙な手口である。ここでもパウロは窮地に立たされるが、彼には信仰による冷静さがあった。
■本論2 パウロの弁明 (24:10-21)
パウロは総督フェリクスの許可を得て弁明の口を開き偽りの訴えに事実を明らかにして反駁した。第一に自分が都上りしたのは五旬節にエルサレム神殿で礼拝するためであり、町を乱したとする具体的な証拠も、誰の証言もない。第二にナザレ派と呼ばれ異端とされているが、キリストを信じ告白する内容は何一つローマ法に背くものではなく、聖書全体と復活を信じる正統的な信仰を持っており、ユダヤ教がローマの公認宗教化されと同様に無害である。第三に神殿を汚したとする訴えは事実無根。むしろ逆に、窮乏する同胞ユダヤ人を助け、さらには神殿祭儀に敬虔に集うため、その規定に従って自らもきよめを受けて宮にいたのである。この三点がパウロの弁明であるが、それでもなお自分を訴えるのであれば、目撃者か証拠人を立てて堂々と裁判に正式提訴するよう指摘し、大祭司の告訴自体が無効であると結論付けたのである。これを聞いた総督フェリクスは自分で判決を下すことが出来ず、現場責任者である千人隊長の意見を聞くことにして裁判を延期した。そして、パウロの監禁を命じている。ここにも神の計画があった。つまり、このパウロにとっては不本意な展開が、実はローマ帝国の権威側総督フェリクスの魂に神の迫りを示す機会となったのである。神の計画と御業。
■本論3 獄中にあっても (24:22-27)
ここで神の御業が具体的に展開する。それは軟禁中のパウロのもとに総督フェリクスが妻ドルシラを伴いキリストを信じる信仰について話を聞くために来たのである。パウロは赦免嘆願を口にはせず、大胆率直に福音を語った。耳を傾けるフェリクスは正義と節制に対比される人間の罪と神の裁きのメッセージにとりわけ恐れを感じ最後まで聞くことが出来なかったと記されている。それは彼が美貌の人妻ドルシラを奪って自分の妻としていること、パウロから釈放と引き換えにワイロを求める下心があること、さらにユダヤ人にはパウロを捕らえることで恩を売ろうとする計算があったからである。神の言葉、そして、イエス・キリストの福音には、人の心に罪の自覚と神への恐れを生じさせ、悔い改めへと導く力がある。ゆえに私たちは自分の状況判断だけに頼らず、そこに神の介在があることを忘れることなく、常に最善を尽くして福音を語る者でありたい。
■結 論
パウロは不本意にも二年間カイサリヤに幽閉された。しかし、獄中のヨセフ、ミディアンのモーセがその苦難の中で神を学び成長したように、彼はそこで神への信頼を学び、内なる人の練達を得てローマへの備えをすることになったのである。神の人が最善を尽くして事を行う時、それが困難の中にあっても必ず道は開ける。この実例による励ましを得て、私たちも最善を尽くして自らの「ローマへの道」を進み行こう。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①人への恐れより神への信頼に立てるように。
②いつも最善を尽くして福音を語れるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒の働き25:1~27
説教題 「御業の進展」
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