「死は勝利にのまれた」
説教ノート No.36 2026.9.6
聖書箇所 コリント人への手紙 第一15章50~58節
■序 論
15章はこの手紙のクライマックス、そしてこのテキストはまさに「死に対する勝利宣言」と言えよう。パウロは問題山積するコリント教会に復活の希望を指し示すことで、彼らの視点を地上の事柄から天の御国の祝福へと向け、悔い改めと信仰に導こうとしたのである。私たちも現実だけを見てうな垂れることなく、信仰の視点、復活の勝利を失うことなく聖化の途上を一歩踏み出し、成長に向けて進みたいものである。
■本論1 再臨の時に (15:50-53)
パウロは、これまで復活前のからだと復活後のからだの違いについて語ってきたが、ここでは「血肉のからだは神の国を相続できません」と言い切っている。パウロが用いる「からだ」という表現は単なる肉体のことではなく知情意を含めた全人的なものであり、「血肉のからだ」即ち未だ罪に支配されている人間は神の国を見、神の国に入ることも出来ないということである。しかし、信仰によって罪と死から解放され復活の約束に勝ちとられた者は「みな変えられます」という奥義が明らかされている。そして、その時については「終わりのラッパとともに」とあり、つまりキリスト再臨のとき、既に死んだ者は朽ちない栄光のからだによみがえり、生きている者は死を経ることなく栄光のからだに変えられるのである。それではこの奥義の条件は何か。それはただ「信仰」のみである。信仰によって罪の赦しと永遠のいのちを与えられた者だけがこの栄光の望みを自らのものとすることができる。
■本論2 完全な死に対する勝利 (15:54-57)
次に、パウロは「復活」が人間の究極の敵である「死」に対する完全な勝利であることを明らかにしている。それが「死は勝利に呑み込まれた」という言葉で宣言されている。これはイザヤ書25章8節にある「永久に死を吞み込まれる。 神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、 全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。」の引用で、そこには神の御国の祝宴に招かれた者への祝福が記されている。つまり、御国の民とされ、復活のいのちに生きる者は死の恐怖から解放され、悲しみや苦しみが取り除かれるのである。「死」は全ての人に必ず例外なく訪れる。何人も死を排除することは出来ない。しかし、神はキリストによって私たちに死への勝利を与えて下さったのである。私たちもこの勝利宣言を声大にして叫び、勝利の凱歌を高らかに誉め歌いものである。そして、私たちは死への解決を得ているからこそ、与えられている人生を神の栄光のために生きたいものである。「 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)というパウロの言葉に深い共感を覚えたい。ハレルヤと。
■本論3 信仰に堅く立って(15:58)
最後に、パウロは栄化の時を待ち望みながら聖化の途上を歩むキリスト者が、具体的にどの様な生き方をするかを結論として語っている。それは第一に「堅く立って、動かされることなく」である。つまり神の御言葉と十字架と復活の福音に堅く立ち、主イエスを土台として生きることではないか。そうすれば私たちは動揺して自分を失うことなく信仰の確信を堅くすることが出来る。私たちはこの社会において福音とは全く別な価値観や思想に囲まれて生活しなければならない。その中で戦い勝利するにはキリストに立つ以外はないのである。第二は「いつも主のわざに励む」こと。私たちの生活の全領域、全時間を貫いて神の栄光を現し、証しすることであると言えよう。自分を愛し、自分が愛する者のために労することは苦痛ではなく喜びである。ましてや人間関係を越えて主の栄光のために生きることができるとは、光栄、特権以外の何ものでもない。私たちも一人のキリスト者として誇りを持って生きて行こう。主の御業のために。
■結 論
聖化の途上、この世のあって生きる私たちは様々な試練、困難、葛藤、つまずきを経験しなければならない。しかし、私たちの見つめる方向は、世の有様や自分の弱さの現実ではない。それは神の御国の栄光であり、復活、栄化の希望である。私たちはどんな時でも主イエス・キリストへの信仰に立てば勇気を失うことはない。「死は勝利にのまれた」という確信が、私たちの口から信仰告白となってほとばしり出る。
■御言葉に対する応答の祈り
①信仰によって死への勝利があることを感謝。
②世に流され動かされず信仰に堅く立とう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント16:1~9
説教題 「聖なるささげもの」
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