「聖なる献げ物」
説教ノート No.37 2026.10.4
聖書箇所 コリント人への手紙 第一16章1~6節
■序 論
これまでパウロは、コリント教会が様々な問題に直面しつつもそれを乗り越え、建て上げられるための鍵が、キリストの復活への信仰にあることを述べてきた。それは信仰の原点に戻り、そこから再スタートせよという勧めである。そして、最後に復活の主との交わりがどの様に実現されるのかを具体的に「献金」をテーマにまとめている。私たちも単なる理想論や軽薄な思弁でなく、実のある堅固な信仰に立ちたい。
■本論1 献金の意味 (16:1)
先ずパウロは、信仰の具体的実践の一つとして「聖徒たちのための献金」について語る。これは周囲からの迫害と深刻な飢饉に困窮するエルサレム教会を助けるための援助献金のことである。この献金活動はガラテヤ、マケドニヤの諸教会が中心になって展開されているが、コリント教会にとっても言わば母教会であるエルサレム教会を助けることは、主にある交わりの実践として当然のことであった。信仰は口先だけの言葉の遊びではない。また頭の中だけで完結する現実から遊離した観念主義でもない。経済力において豊かで何の不足もないコリント教会であっても、彼らの信仰と愛は実際に「献金」という形に表されて実践されなければ何の意味の無いものになるのである。もう一つ確認すべきことは、この献金は任意の「支援献金」であり、彼らが自らの教会を支える「責任献金(十一献金)」とは別ということ、どんな愛の業も自分の教会での務めを果たさなければ、結局は自己満足に回帰していくのである。
■本論2 献金の姿勢 (16:2-3)
次にパウロは、献金する者の姿勢について教えている。これは「心」の問題であると言えよう。注目すべき第一は「それぞれ・・・収入に応じて」という点で、献金はその比較や多寡が問われるのではなく、神から与えられている自らの収入から、自分の意思によって自身の最善を神に聖別する信仰の実践である言えよう。「献金」はその人の「信仰」そのものであり、慈善や福祉負担金ではなく、また教会における自分の影響力誇示の手段でもない。また献金は自発的行為であっても、自分の気分に左右されることなく、自らの信仰告白そのものであることを自覚したいものである。キリスト者の豊かさの鍵は「捧げること」にあることを経験しよう。第二は「週の初めの日に・・・手もとに蓄える」。これは初穂を捧げる信仰を意味している。残り物、余り物には感謝、喜び、献身という信仰の心は込められない。では捧げものには決してならない。神への捧げ物のことで憎しみと殺人まで堕ちたカインの姿を教訓に、私たち同じ轍(わだち)、同じ罠に陥ることなく、最善をもって神に捧げ、神に栄光と賛美を帰するものでありたい。
■本論3 新たな展望に向かって(16:3-9)
最後にパウロは、援助献金の集め方と送金方法、そして、今後の彼の伝道計画について述べている。彼の献金の扱いは常に教会の承認を得られる手続きでなされていることに注目したい。「あなたがたの承認を得た人たちに」(16:3)との言葉から、彼が献金の授受には教会の信任と信頼を得た人物が当たるよう慎重に配慮していたことが分かる。神に捧げられたものは一円たりとも無駄にされず、不当・不明にならず、主のために用いられ、しっかりと報告されなければならないということである。教会の信頼関係の大前提である。またパウロがこの援助献金を彼個人の業としてではなく「教会」の信仰の業として捉えていたことも、より慎重な手続きを進めようとした理由と理解することも出来る。しかも彼は、自らマケドニヤからコリントに滞在して再会を喜び、さらにエーゲ海を海路で西にエペソを経由し、エルサレムに上ることをも決意している。教会を愛し福音の宣教のために生きるパウロの情熱が私たちの心に迫って来る。
■結 論
私たちが手にする所有物、労働の実である収入、さらには健康も、実は神からの賜物である。そして神から与えられているものを感謝をもって神にお返しする「献金」は、私たちの信仰と献身の具体的実践である。先人が「私たちがスコップ一杯のささげ物をするとき、ダンプカーいっぱいの祝福を与えて下る方である。」と語った言葉が心に響く。
■御言葉に対する応答の祈り
①自分の捧げものを聖別して神の栄光を現そう。
②捧げることが豊かさの鍵であることを知ろう。
■次回説教
聖書箇所 Ⅰコリント16:10~24
説教題 「堅く信仰に立つ」
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