説教ノート No.3 2022.10.2
聖書箇所 ローマ人への手紙1章18節~32節
■序 論
人間が真に幸福になるためには、その根本原因である人間の本質的罪、即ち「原罪」に解決を得なければならない。パウロは、キリストの福音が救いを得させる神の力であることを説明した後、この人間の「罪」の問題に鋭くメスを入れ、全ての人に「信仰」と「悔い改め」の必要性を訴える。ここに私たちは自分をどう理解し、何を必要としているか内省し、神に立ち返る者となりたい。
■本論1 罪の根本原因-神への反逆- (1:18-21)
先ずパウロは段落の冒頭で、人間の根本的な罪について「不義によって真理を阻んでいる」という表現で指摘している。これは人の頑なな心が神に背を向け離反することであり、さらには反逆することである。さらにその反逆に対して必ず神の怒り、即ち、審判が下されるとも警告されている。しかも誰かが「自分は神の存在を知らなかったので裁きは不当」と自己弁護しても受け付けられない。それは神の存在が天地創造以来被造物によって証しされているからである。神を知りながら神を拒否して離れていく、これこそ聖書の指摘する「罪」であり、人間の不幸の根本的な原因となっているのである。私たちが本気になって福音を求め、それを得るためには、先ず自分が自身の罪を認め、悲しみ、苦しむところを通ることが不可欠である。そうでなければ主イエスの十字架の苦しみの意味が自分に見えず、また真剣に求めることもない。私たちはしっかり神と向き合う者となろう。
■本論2 罪の現実Ⅰ-偶像礼拝と不品行- (1:22-27)
次にパウロは、人間が罪に拘束されるとどの様な結果を生むかを語る。それは第一に偶像礼拝であると説明している。人間は神をそのあるべき位置に置かず、それに代わるものを神の座に据える。実は、その神々は自分の欲望に仕えさせる道具であり、結局、自分自身を神にする高慢と不信仰の現実がそこにあると言えよう。もちろん形あるものだけが偶像ではない。サタンはあらゆる物を人間の欲望に訴えて誘惑し、神からの離反、神への反逆へと誘おうとしているのである。第二は性の混乱と放縦である。神のかたちに創造された人間の「性の尊厳」は堕落以来大きく歪み、また乱れてしまった。それはソドムとゴモラに象徴されるように、聖霊の宮である肉体が不品行によって汚されていると鋭く指摘し、しかも驚くことに、神は人間の罪ゆえにそれを放置されたとも言うのである。神からの離反は、神との関係、さらに人間関係を蝕んで滅びに向かわせることを知らなければならない。
■本論3 罪の現実Ⅱ-生活の中での個々の罪- (1:28-32)
罪は罪を生む。さらにパウロは、原罪が生じさせる罪のスパイラルについて鋭く指摘している。それは、神からの離反によって偶像礼拝と不品行へと迷い込み、さらに社会生活における個々の罪として現れてくるというものである。原罪を起点とする罪の波紋的広がりである。29節から31節にはその具体的リストアップがなされ、実に21もの行為や思いにおける罪々が数え挙げられている。それらを要約すると①ねたみの罪、②中傷する罪、③傲慢の罪、④不誠実の罪の4つに分類することができる。さらに鋭い指摘は32節、これら個々の罪が死罪にあたることを知りながら行うだけでなく、直接自分の手を汚さず心の中では全く同じことを行っていると言うのである。人間は紳士・淑女の表面を整え得ても、神の光に照らし出されると、心の内側に隠されたあらゆる罪が明らかになり、一切の弁解が出来なくなるのである。しかし、実はこの罪を悲しむところから救済の道は始まるのである。
■結 論
この鋭い罪の指摘を耳にして私たちは頭をうな垂れるだけだろうか。否である。確かに、私たちは今もなお罪を犯す罪人であるが、キリストの十字架を信じる信仰のゆえに、すでに罪赦された罪人なのである。そして、聖化の途上を完成を目指して歩む者とされているのである。私たちは、神を畏怖し、悔い改めることに誠実でありたい。そして、救いを喜び感謝しつつ進もう。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①神の前に自分の本当の姿を認められるように。
②救いに感謝しつつ悔い改めの実を結べるように。
■次回説教
聖書箇所 ローマ2:1~16
説教題 「人のさばき、神のさばき」
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