説教ノート No.25 2021.5.2
聖書箇所 使徒の働き15章1節~21節
■序 論
「 エクレシア」(呼び出された者たち)である「教会」は、均質的集団ではなく、様々な価値観、習慣、背景を持つ者たちが結び合わされた共同体である。そこには当然、意見の相違や考え方の違いが生じ、時に対立が生じることすらある。これは教会の本質を損ねることではなく、その多様性にも一致点を求め、対立にもキリストの平和を求めることに「教会」の姿がある。神のみこころを求める祈りに聖霊の一致が与えられる。
■本論1 問題の発生 (15:1-5)
第一次の伝道旅行を終えてパウロとバルナバはアンティオキア教会に帰ったが、間もなくそこに大きな問題が生じた。エルサレムから来たユダヤ人信者が「割礼を受けなれれば救われない」と異邦人の信者に要求したことによる混乱が生じたのである。これは信仰によって救われるという福音の本質に関わる、決して曖昧にできない重大な問題であった。寛容を徳とするキリスト者の生き方においても、こと福音の真理に関しては妥協を許さない厳しさが求められることがある。早速、パウロとバルナバはこの問題について使徒、長老たちと話し合うためにエルサレム教会へ赴いたが、すぐにパリサイ派の背景をもつユダヤ人信者から異邦人の律法遵守の要求が強行に出されたのである。はたして自分に当然なことを他者にも当然として要求することが信仰の論理として正しいことだろうか。私たちの信仰生活、教会生活においても冷静に省みるべきことではないだろうか。私たちは自分が正しいと確信することはしっかりと主張すべきである。しかし、それが独善にならないよう、相手を追い詰めることにならないよう、神と自身に問いかけることを忘れてはならない。
■本論2 エルサレム会議召集 (15:6-12)
そこでエルサレムにおいて使徒たち、長老たちが一同に会し「律法と福音」をめぐる最初の教会会議が行われることになった。いわゆる「エルサレム会議」である。そこでは賛否両論、激論が交わされた後ペテロが立ち上がって発言した。彼の主張は、①神ご自身がユダヤ民族以外の異邦人をも福音へと導かれ、聖霊を与え、罪の赦しを成就されたこと。②ユダヤ人が自らの力で負いきれなかった律法の要求を異邦人に強要することは神を試みることになる。③すべての人の救いは等しく神の恵みに基づく。このペテロの発言は以上3つの論点に集約され、福音の中心を貫いたものである。この「信仰のみによる異邦人の救い」を弁明するペテロの言葉には何人も抗しがたい説得力があった。続いてパウロとバルナバが、アンティオキアや第一回伝道旅行で目の当たりにしてきた多くの異邦人の救いの事実を報告し、この証言によって「信仰のみ」というエルサレム会議における教会の本質的決議へといよいよ導かれるのである。神は教会を様々な出来事を通して訓練して下さる。
■本論3 神のみこころは (15:13-21)
最後に、主の兄弟ヤコブが議場に立ち会議を終結するために総括を語った。彼はペテロの主張を全面的に承認し、恵みによる異邦人の救いが神のご計画として聖書(アモス9:11-12)に預言されていることを指摘しつつ、さらに律法順守を要求して異邦人を悩ませてはならないことを共通見解とするために以下の4項目の提案をしている。それは①偶像に供えたものを食べない。②不品行を避ける。③絞め殺した物を食べない。④血を食さない。以上がユダヤ人も異邦人も共通に避けることであり、それ以外の律法要求を異邦人信者に求めないということである。本来律法の制約のない異邦人信者の側もユダヤ人信者のつまずきにならないよう最低限度の共通ルールを取り決めようというものである。もちろんこれも救いの条件ではなく、相手のために配慮するよう心がけてもらいたいという「人間の愛」への訴えである。教会の秩序の源はここにある。教会の徳を立て秩序を維持するために取り決められる「規則」には、そこに信仰と愛が底流に息づいていなければならない。教会における法の精神は神の愛そのものであり、教会法の運用には神の愛の結実が求められている。
■結 論
教会史における最初の教会会議であるエルサレム会議の決定は、神の黄金律すなわち愛によるルールの確認である。全てのキリスト者は律法から解放され、全てのことを行う自由を持っている。しかし、同時に互いにつまずきとならず、互いに愛と徳を高めることを選択する。これがキリスト者の信仰生活、教会生活における判断基準である。南柏聖書教会がこの秩序によって交わりが祝福され、教会が建て上げられることを祈ろう。
■御言葉に対する応答の祈り
①相手への愛の配慮をもって行動できるように。
②愛の秩序によって教会が結び合わされるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒15:22~41
説教題 「喜びとともに」
Comments