説教ノート No.21 2021.2.7
聖書箇所 使徒の働き12章1節~25節
■序 論
アンティオキア教会は異邦人世界に誕生した教会としてローマ帝国下、地中海世界に、宣教の発進基地としてその使命を果して行くことになる。その一方で、エルサレム教会には大飢饉の困難に続いて権力者による迫害の手が向けられた。試練に続く試練が重なって行った。そのような状況において教会は大きく動揺したに違いないが、彼らの信仰は貫かれ、その告白は決して沈黙することはなかった。神の守りの御手は確かに伸ばされる。
■本論1 向けられる敵意に (12:1-5)
ここでの迫害の主役はヘロデ王、すなわちヘロデ大王の孫ヘロデ・アグリッパである。祖父の偉大さにいつも気後れを感じている彼は、信仰に厳格なユダヤ人であればあるほどキリスト者に敵意を持っていることを知り、教会をたたいて見せれば自分の人気が上がると計算してヨハネの兄弟ヤコブを捕らえ血祭りにあげた。これが的中したためヘロデはさらに教会のリーダーであるペテロをも捕縛し、過ぎ越しの祭りが明けたら民衆の前で処刑しようとしていた。歴史を振り返ってみると教会は権力からのあつれきにさらされた連続でもあった。その力に対して教会は小さく弱い存在に見える。しかし、否である。教会には最強の武器である「祈り」があり、全能の神の御手はそれによって動かされるのである。ペテロの危機に教会はひたすら祈った。私たちも祈る僕として生きる者でありたい。さらに、神を畏れて人を恐れず、何者にも媚びない自由人として生きる者でありたい。
■本論2 開かれる脱出の道 (12:6-17)
ここに奇跡がおこる。鎖につながれたペテロの前に光とともに御使いが立ち、立ち上がってついて来るように指示した。驚くことに不思議にも太い二本の鎖は解け、数名の監視が立つ厳戒体制の中、ペテロは御使いに導かれて衛所を通過し門を出ることが出来たのである。全能の神は信仰の祈りを聞いてくださり、その信じる者をあらゆる困難や試練から守られる。「試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」というⅠコリント10章13節の御言葉は、私たちにも真実であることを決して忘れてはならない。私たちも人生の歩みの中で直面する試練や困難に、最善を尽くしてもなお無力さに打ちひしがれることがある。しかし、私たちは神の御手による逆転があることを信じて祈ろうではないか。これが「信仰」である。ハレルヤ。やがて教会の兄弟姉妹たちは、ペテロが牢屋を出て教会に戻った知らせを聞いて、それをすぐには信じることが出来なかったが、彼の姿、その事実を見て非常に驚いた。これは最初から信じてなかったということではなく、人知を越えた御業の偉大さのゆえであろう。私たちも神の御業を体験し、その証言者として生きる者でありたい。
■本論3 おごる者の結末 (12:18-25)
ヘロデ・アグリッパは、ペテロを逃した番兵の責任を追求して処刑し、教会弾圧政策失敗の評を避けるためにカイサリアへ下った。そこで彼は惨めな死に直面し最期を迎えることになる。王座から自らの演説を「神の声」と豪語する彼が、なんと目にも留まらぬ小さな虫にかまれ瞬く間に息が絶えたのである。まさにおごる者久しからず、実にかなしい結末と言えよう。この死について「主の使いが打った」「神に栄光を帰さなかったから」と説明されていることにも注目しよう。人は、人の生と死を支配し、人の全ての罪を、その義をもって裁く神こそ畏れなければならない。民主主義と社会福祉を長い時間と犠牲を払って獲得した現代人は、そこにある現実と矛盾にさらされている。しかし、私たちは社会、個人の悪や罪を指摘する前に、その原因が人間の中に存在する「神の声だ。聞け。」という高慢な本質的罪(原罪)にあることを知り、認め、先ず自らが神の御前に悔い改める者でありたい。キリストの十字架と復活の福音は、人間を蝕む死に至る病から完全にいやし、罪と死の束縛から解放してくださることを確信し、感謝と喜びを新たにしよう。
■結 論
神の御手は働く。この信頼感は、私たちに祈りの姿勢を整えさせ、如何なる時にも希望を持たせ、信仰の大いなる励ましである。キリストの福音を証しするペテロを誰も阻止出来なかったように、聖霊なる神は私たちを強め、その御業のために用いようとしておられるのである。私たちも神の器とされ、神の御手となり、世の光、地の塩として、私たちの遣わされる場所で生きて行きたい。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①神の守りが常にあることを感謝しよう。
②聖霊によって証し出来るよう祈ろう。
■次回説教
聖書箇所 使徒13:1~12
説教題 「神の派遣と教会」
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