説教ノート No.2 2020.6.28
聖書箇所 使徒の働き1章12節~26節
■序 論
主イエスの弟子たちに対する約束は、聖霊の力によって彼らをご自身の「証人」にすることであった。「証人」とは事実を正確に証言する者のことであるが、私たちもキリストの十字架と復活の事実を勇気をもって語る者になりたいと願うものである。そのために、その根拠である「聖霊の力」は私たちにどのように臨むのだろうか。この聖書箇所から歴史の事実を学び、私たちもその当事者になろう。
■本論1 祈り求める姿 (1:12-14)
主イエスの昇天を目の当たりにした後、弟子たちはオリーブ山からエルサレムに戻り、最後の晩餐が行われた場所に集まった。ユダを除いた11弟子と、ガリラヤから従って来ていた女性たち、そして、主イエスの家族である。彼らはそこで主イエスの約束を待ち望んだ。そこには「みな心を合わせ、祈りに専念する」と記されており、まさに信じる者の群れであり「教会」の原型とも言えよう。ペテロは3度も主イエスを裏切り、トマスは復活の事実を疑い、多くの弟子たちがゴルゴダの刑場からから逃げ去る過去を持っていた。しかし、彼らは互いに非難することなく、心を一つにしてひたすら祈ったのである。この「祈り」こそ神の約束が実現するための人間の側の「鍵」あり、聖霊を待ち臨む姿なのである。私たちも、信仰生活において聖霊に支配されることを求め、そのために互いに心を合わせて祈るものでありたい。祈りの場に聖霊の支配とその力が鮮明に、豊かに及ぶのである。
■本論2 欠けを補う必要 (1:15-22)
聖霊によってキリストの証人とされるに必要な第一の姿勢は「祈り」であるが、もう一つの備えは、裏切りの徒ユダの代わりに新たな使徒を選んで12弟子の欠員を満たすことであった。使徒を代表してペテロがその必要を訴えたが、それはユダの悲惨に対する個人的同情でも、犯した罪を訴えて裁こうとする非難の態度でもなかった。ペテロは、あくまでも「聖書のことばが成就するため」と位置づけ、神の許容の中にある事実であったことを確認し、過去の罪に聖書的清算をしようとしたのである。彼はその上で使徒を補充する必要を説き、その条件が何であるかを説明した。使徒とは元来「遣わされた者」であり、それは①主イエスの伝道の働きに行動を共にし、②キリストの復活の目撃者でなければならなかった。この条件を満たす者が12弟子の欠けを補うことによって約束の聖霊が降る備えが整うのである。私たちの教会においても聖霊臨在の条件が豊かに満たされ、整えられていきたい。
■本論3 神の導きに委ねて (1:23-26)
さて、弟子たちの中で使徒となる条件を満たす者はユストとマッテヤの二人だけであった。この二人について聖書で詳しい紹介はないが、彼らは主イエスの伝道の初期からその働きに仕え従ってきた人物であり、復活の証人でもあった。この二人の候補者が立てられると人間の側における準備が整い、後は神の選びの御業を待つだけとなる。そこで彼らは神に祈り、くじを引いて神のみこころに委ねたのである。これは旧約にも見られる神のみこころを判断する方法である。相対的な見方・判断しか出来ない人間は、神の支配に信頼して祈り、出来る最善の整えをなして、神に委ねる謙遜を持たなければならない。くじの結果、マッテヤが使徒として選任され12弟子が満たされたのである。神は祈り求める者にはその御心を示して下さり、神の最善へと導いて下さるのである。私たちも神の御心を知る判断基準を明確にし、聖霊なる神ご自身が御業を成して下さるのを待ち望む者でありたい。
■結 論
弟子たちは、キリストの「証人」となる根拠である「聖霊の力」を与えられるために、ひたすら心を合わせて祈り待ち望んだ。そして、ユダの罪に聖書的清算をなし、使徒団の欠けを満たすことによって神の導きを求めたのである。教会がそのいのちを胎動し、真のエクレシアとなるに、私たちも互いに心を合わせて祈り、神の赦しと回復を体験し、主の御業を待ち望む群れでありたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①私たちがこころを合わせていつも祈れるように。
②互いに欠けを補い満たしあえるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒2:1~13
説教題「聖霊の満たし」
Comments