説教ノート No.30 2021.8.29
聖書箇所 使徒の働き17章16節~34節
■序 論
神なき文化はやがて人間を神の領域にまで分け入ることになり、それはバベルの塔と化していく。ギリシア・ローマ文化は、皇帝カエサルを神とし、あるいはギリシア神話の神々を理想的人間像として芸術的肉体像を刻んだ。パウロたちの第二次伝道旅行、彼らはアテネの町に立つが、ここはローマ地中海世界をリードするギリシア文化の中心地、優れた哲学、神話、政治、宗教を世に誇ったが、しかし、自らを誇り得ても彼らの魂を満たすものではなかった。ここに福音がどのようにギリシアの人々に語られたかパウロの説教に学ぼう。
■本論1 ギリシャ哲学とパウロの怒り(17:16-21)
先にアテネに着きテモテとシラスを待つペテロは、町中に偶像が林立するのを見て非常な憤りを感じ、ギリシア哲学者と福音の弁明のために論じ合った。エピクロス派は、世界・宇宙は偶然の所産、人間の幸いは「苦痛」を離れる快楽にあるとして快楽主義を説き、ストア派は、人間が理性と合致して生きることを最高善とし、その実現に無益、有害な感情を完全に自制しなければならないと禁欲主義を主張した。ここにパウロは主イエスの十字架と復活を語るが、彼らには無知のおしゃべりか外国の神論にしか聞こえなかったようである。前述のとおり、神なき文化は高慢な自己の絶対化を生み出し、己を神とし、自らの滅びることを知らない。現代社会の価値観も、混迷する社会情勢も、共通するものがある。現代社会に生きる私たちキリスト者も、このアテネの現実に向き合ったパウロの義憤を見落としてはならない。寛容を徳とすることを願うとともに、神の義を貫く信仰の意思を失ってはならない。そうして「地の塩」として生きて行きたい。
■本論2 ギリシャの宗教と創造の神 (17:22-29)
新しもの好きなギリシアの人々は、パウロをアレオパゴスに連れて行き、そこで説教をさせることにした。興行開催のごとくであるが、ここで有名なパウロの伝道説教が語られることになる。彼はギリシア人の宗教観に対する洞察から話を始め、彼らが多くの神々を持ち、さらには「知られない神」までも拝まなければならない理由が、結局のところ、彼らの宗教的不安や無知によるものであることを暗に指摘した。その上で、今まで彼らが知らずにいた「創造の神」へと本論を進め、創造主はギリシア文化の粋を集めたパルテノン神殿にも封じ込めず、アテネの神々は人間の想像の産物だが、人間を創造した神こそまことの神であることを明確に弁明したのである。さらに、創造者である神は人間のすべての営みに介在し、その歴史を支配するお方であり、人間の観念の外に離れた存在ではなく、真剣に求める者の近くにおられる「臨在の神」であることを説明した。
さして、ギリシア人でも、ユダヤ人でも、すべての民族が、まことの神をたずね求め、それを自ら見いだすようにと勧めたのである。私たちも汎神論の混乱、無神論の無知から方向転換し、創造者としっかり向き合おう。
■本論3 ギリシア哲学と審判者の神 (17:30-34)
最後に、パウロは彼の説教を聴く者たちに創造主なる神の裁きがあることを告げ、偶像礼拝と自分を絶対化する高慢の罪を悔い改めるように迫った。今や人間の罪に対する神の寛容と裁きを無視することは誰も出来ない。神の「寛容(赦し)」と「非寛容(裁き)は一見矛盾するようであるが決してそうではない。創造主なる神はイエス・キリストの十字架において救いの手だてを示されたと同時に、悔い改めを拒否し、神に背を向ける者への報いは死と滅びであり、それを自ら刈り取ることになると言うのである。そして、さらに主イエスが死人の中からよみがえったのは、神の審判が必ずあることの証拠でもあるとパウロは説明し、ギリシア人たちの心と魂に迫っている。これに対して、自らの知恵と豊かさを誇るアテネの人々はあざ笑ったが、これが自分の滅びに直接関わることを誰が知っていただろう。世界に誇るパルテノン神殿がやがて廃虚と化すことを誰が推測しただろう。同様に、私たちも魂の生死に関わることは、自分が自分に責任を持たなければならない。
■結 論
残念ながら第二回の伝道旅行においてアテネ教会が誕生したという記録はどこにも見当たらない。ギリシア文化の都での宣教は失敗に終わったのだろうか。いやその様な評価をする必要もない。むしろ裁判官ディオヌシオら幾人かが信仰に導かれたことを神に感謝するものでありたい。そして、どのような条件や場所においても福音の種が蒔かれ、必ずそれが結実していくことを忘れてはならない。私たちも時代の信仰告白者でありたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①異教文化の中でも創造神を語れるように。
②救いと審判を明確にすることができるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒18:1~17
説教題 「恐れず語れ」
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