説教ノート No.19 2021.1.24
聖書箇所 使徒の働き10章34節~48節
■序 論
ローマ軍イタリア隊が駐屯する地中海沿岸の新興都市カイサリアにおけるペテロとコルネリウスの出会いは、福音が民族とその文化の壁を乗り越える契機となった。それは異邦人伝道、そして、世界宣教の黎明と言うことが出来よう。ペテロは続けて神の救いの計画と福音の中心点を明らかにする。それはキリストの十字架と復活以外に人間を罪から解放する手だてがないということである。私たちも福音の内容理解を深めよう。
■本論1 救いは全ての民に (10:34-37)
先ずペテロが解きあかしたことは神ご自身についてである。神とその恵みには偏りがない。この神認識は旧約聖書が貫いて教えるところであるが、「神の選民」というユダヤ民族の特権意識に執着する者にとっては認め難いことであった。しかし、ペテロはこれまで見た幻や、その耳で聴いた神の語りかけを熟慮の末、彼の確信することは、どの国の人であっても神を恐れ、みこころを行う者を、神が受け入れてくださるということであった。そして、人間を偏りみることのない神は、その恵みと愛をイエス・キリストにおいて成就し、何人をも救いへと導いて下さると語ったのである。「イエス・キリストはすべての人の主です。」この宣言によって、もはや神の前にユダヤ人と異邦人の区別は存在せず、全ての者が救いへと招かれており、自らの罪を悔い改め、キリストの十字架を仰ぐ者を、神がすべての罪の束縛と滅びの死から救い出して下さる道が開かれたのである。そして、この初代教会の時代から 2000 年の時を経て、キリストの福音は全世界へと広がり、実に私たちにまで及んでいることを覚えて感謝したい。そして、そこには先人の愛と犠牲があったことを忘れてはならない。
■本論2 福音の中心-十字架と復活- (10:38-43)
次に、ペテロは主イエスの公生涯と、福音の中心とも言うべき十字架と復活について説明する。主イエスが公生涯において行われたことは、聖霊の油そそぎを受けて、①みことばを教え、②病をいやし、③悪霊を追い出すことであった。その目撃者であるペテロは自分が言葉は自分自身が経験した事実のゆえにその言葉に力が入ったであろう。さらにペテロはゴルゴタの刑場で、その目で直接目撃した十字架の出来事と、その意味についてはっきりと語り語っている。それは、神に選ばれた特別な民を自負するユダヤ民族(ペテロ自身を含む)が、主イエスを十字架にかけて殺したと、恐るべき事実を痛みをもって告白するが、これは人間の根本的な罪を指摘するものであった。神の恵みに偏りがないが、同時に人間も例外なく罪人なのである。十字架が自らと関係がないと言いうる者は誰もいない。しかし、神はキリストを死者の中からよみがえらされ、罪人が受ける死の滅びから、十字架を仰ぎ信じる者を解放し、救いを保証して下さるのである。ここに人間が罪と滅びから救い出される唯一の道が示されている。
■本論3 聖霊の満たし (10:44-48)
ペテロの説教が続く中で教会にとって歴史的な出来事が起こった。異邦人コルネリウスをはじめそこに集まっていた仲間たちに聖霊が降ったのである。それはペンテコステにおける聖霊降臨と同じ有様で、異邦人たちが聖霊に満たされ、異言を語り、神を賛美するというものであった。これは神が全ての国民に偏りなく恵みをお与えになるというペテロの説教が実現した出来事と言えよう。そこに同席したユダヤ人、そしてペテロ自身にも驚きであったに違いない。彼らは、福音の対象者が全ての民族、全ての国民であることをはっきりその目に見せられた。そこでペテロは、コルネリウスと聖霊を受けた人々に、罪の赦しと新生を象徴する「洗礼」を、主イエスの名によって受けることを厳かに命じ、喜びの洗礼式が執り行われたのである。私たちはこの出来事を神秘的な憑霊現象と誤解してはならない。聖霊なる神はそのことばとともに働いて信じる者の心に内在し、その御業をなして下さる。私たちが説教を聴き、霊的感動を得、慰められ、励まされて生きて行く、これが聖霊の働きそのものなのである。聖霊の満たしは信じる者の全てに与えられ、私たちをも満たして下さる。
■結 論
福音の中心はイエス・キリストの十字架と復活である。これをおいて他に救いの道はない。そして、神は偏りなく全ての人をこの救いに導こうとしておられ、そのために私たちを福音の証し人としてお用いになるのである。全世界に十字架の福音が宣べ伝えられるよう願い、私たちもその働き人として用いられたい。
■御言葉に対する応答の祈り
①福音の内容をさらに深く理解し体験できるように。
②全世界に福音を伝える情熱が燃やされるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒11:1~30
説教題 「福音は世界に」
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