説教ノート No.11 2020.9.6
聖書箇所 使徒の働き5章12節~42節
■序 論
アナニアとサッピラ夫婦における献金姿勢とその偽りに対する厳粛な神の裁きに教会には神への恐れが生じた。それは教会の聖さへの自覚と、聖なる神への畏敬である。この出来事は教会にとって意味があり、彼らエクレシアの本質に近づけられる経験となったと言えよう。教会の内側が整えられると外へは積極的な伝道へと向かい、福音は試練をも乗り越えてさらに前進していくのである。
■本論1 教会の業 -多くのしるしと不思議- (5:12-16)
聖別を経験した教会は、さらに聖霊の満たしを受け、使徒たちを通していやしをはじめとする多くの奇跡が行われた。神が生きて働かれる教会には必ず「魂の救い」と「病のいやし」が恵みのうちに行われる。ここで興味深いことに教会を取り巻く人々には二通りの態度が見られることに注目しよう。一つは「交わりに加わろうとしない」傍観者の姿であるが、彼らも教会を尊敬していた。神を恐れて生きる者の姿は敬意の対象となることを知ることが出来る。二つ目は無関心な者ばかりではなく、明確な信仰を告白して教会に加わる者が多く起こされた事実である。ここに私たちは大きな可能性と希望を見いだすことが出来る。それは、教会が心を一つにし、神の救いといやしが行われる時、人々の目は教会へと向けられ救いに導かれるのである。この恐れと痛みの時代に教会の使命を覚えよう。
■本論2 教会への迫害と福音の弁明 (5:17-32)
教会の祝福を見たサドカイ人たちの心中に激しいねたみがこみ上げ、使徒たちを再び捕らえ拘留した。福音が人の心に向けて語られる時、それを聞く者の心が神から離れていればいるほど福音への抵抗は大きくなる。しかし、誰も福音の前進を阻むことはできない。驚くことに御使いが牢の扉を開き、さらに福音を語り続けるよう使徒たちを励ましたのである。続く出来事の展開は、使徒たちを公的に断罪し、彼らの伝道を阻止するために全議会が召集されたにも関わらず、すでに獄舎は空となっていたのである。もちろん使徒たちは逃げ回ったのではない。彼らは再び議会の前に立つことになる。議場における当局者の使徒たちへの詰問内容は、①禁じたイエスの名による教えをなぜするのか、②イエスの死の責任を議会に負わせるのか、という二点であった。ペテロたちは①自分が神の権威に従うこと。②ユダヤ当局者がイエスを十字架につけた事実。③十字架と復活が救いといやしの根拠であること。使徒たちはこれらの言葉を聖霊に満たされて大胆に弁明したのである。福音は抵抗があるときこそ、その中でより鮮明にされるのである。私たちもこの事実を決して忘れてはならない。
■本論3 神の守りと福音の前進 (5:33-42)
議会は使徒たちの弁明を聞き、いよいよ激しい怒りに燃えて彼らを殺害しようとした。まさに危機的状況である。しかし、絶体絶命ぎりぎりのところで神の御手が働かれる。神はサドカイ人と立場を異にするパリサイ派のガマリエルを用いられた。信頼の厚い彼がユダヤの革命家テウダやガリラヤの反乱者ユダの結末を例にとり、その計画や行動が人的なものか神的なものか冷静に状況を判断することを勧告した。それによって使徒たちは一命をとりとめ釈放されることになったのである。神の守りはいかなる所からでも可能となることを知ることが出来る。釈放された使徒たちはイエスの御名のために辱められるに値する者とされたことを喜び、誇りとしてさらに大胆に福音を語った。福音は前進する。この時、賢者ガマリエル門下にやがての「パウロ」、サウロがいたことも神の摂理である。
■結 論
初代教会には救いの喜びが満ちていた。しかし、その喜びは自己目的なものではなく、教会はその喜びをさらに伝えるために戦う教会であった言えよう。私たちも与えられた救いの恵みを安逸の中に留めることをせず、神の力に信頼し宣教のために戦うものでありたい。私たちも「福音の前進」のための働き人となろう。聖霊の力を受けて。ハレルヤ、アーメン。
■御言葉に対する応答の祈り
①神の力に信頼して福音を語れるように。
②寛容とともに、福音を貫く厳しさに立てるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒6:1~7
説教題 「成熟に向かって」
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