説教ノート No.11 2023.2.12
聖書箇所 ローマ人への手紙5章1節~5節
■序 論
信仰義認の恵みは、現在、過去、そして未来における罪の赦しを神が約束するというものである。さらに続く5章では、救われた者が義認の結果どの様な具体的祝福を得られるかについて説明が続く。私たちが「恵の信仰」によって生きる信仰生活において、希望と喜びに満ちた生活を送るためにこの確認はどうしても必要である。私たちは信仰義認の結果として与えられている祝福について再度確認し、その実を結ぶものでありたい。
■本論1 神との平和 (5:1)
先ずパウロは、信仰義認の結果として神から与えられる祝福の第一として「神との平和」を挙げる。これは罪のゆえに断絶していた神との関係が回復し、和解が成立したことを意味している。しかし、俗に言う「仲直り」ではない。また罪人である人間の側から申し立てての和解でもない。それは「キリストによって」と説明されるように、あくまで主イエスの十字架の贖いを根拠とし、神の側からのみ宣言されるものであり、人間の側から言えば、恵みとして与えられた賜物であることを忘れてはならない。さらにパウロは「神との平和」には二つの実を結ばせる結実が伴うことを教えている。その一つは、信じる者の内に生じる心の平安である。罪を赦され、神のみもとに帰ることのできる者には「魂の平安」が与えられるのである。二つは、人間関係の平和である。赦された経験は「赦し」へと人の心を向かわせることを覚え、再度「主の祈り」の文言を噛みしめてみよう。私たちが地に平和をと祈る時、先ず「神との平和」からスタートすることを忘れてはならない。
■本論2 栄光の望み (5:2)
信仰義認の結果として与えられる第二の祝福は、「栄光の望み」である。神との平和が現在の恵みであるのに対して、これは未来の希望として語られていると言えよう。それでは2節の「神の栄光を望む」とは具体的にどういうことか考えてみよう。ここにも二つの意味があると言えよう。その一つは、神との交わりの回復である。かつて神と断絶していた関係が、神の栄光を直接拝し、神の子とされる特権が与えられることを意味している。これは国王謁見の光栄以上の特権であり、私たちにとって大いなる光栄と言えよう。その二つは、栄化の希望である。神の約束は救われた者には永遠の生命が与えられ、復活の希望に生きることができるというものである。Ⅱコリント3:18に「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」とあるごとく、主イエスの再臨の時には、私たちもこの肉の体を脱ぎ捨て、全ての束縛から解放されて、罪と死に勝利してよみがえられた復活の主と同じ栄光のからだに変えられるのである。今、私たちはこの現実の世界・社会の中で生活している。しかし、聖書の教える終末論的視点を失うことなく、そこに大いなる希望があることをしっかりと握りたいものである。
■本論3 患難の中の希望 (2:3-5)
第三の結果としての祝福は、信仰生活において経験する苦難解釈の変化である。一般的な人間の価値判断では苦難は忌み嫌うべきものである。しかし、信仰によって救いの恵みに勝ち取られたキリスト者にとって、苦難・艱難はもはや不幸の原因ではなく、むしろそこを通るときに神の助け、慰めや励まし、自分に及ぶ神の力をより鮮明に見いだすことができる。だからこそパウロは「患難さえ喜ぶ」と言い切り、「患難」⇒「忍耐」⇒「練達」⇒「希望」という信仰の発展原則を語ったのである。私たちが患難の中にあっても信仰による忍耐をもって歩み続けるとき、神は私たちに練達を与え、練られた品性を結実して下さる。この「練られた品性」には「テストして認可ずみのもの」の意味があるが、試練を通して信仰が試され、訓練されて本物になっていくのである。私たちも試練や困難の中を通ることは避けられない。この信仰の発展原則と目標がしっかり見えている時、患難は苦痛ではなく希望を仰いで前に進むことができるのである。私たちの「忍耐」は我慢して時を過ごすことではない。練達と希望に向かう前身の時である。聖化の途上における神の訓練の時である。
■結 論
最後にパウロは「この希望は失望に終わることがない」と語った。その根拠は、神の愛が注がれているからと説明している。私たちに対する神の愛には偽りがない。神の約束は反故にされるとこなく、時満ちて必ず成就することを忘れてはならない。私たちが神に愛されているという自己確認は勇気の源となり、どんな時にも希望を失わない力となる。今日も、明日も、十字架を仰いで歩み続けようではないか。ハレルヤ。
■御言葉に対する応答の祈り
①信仰によって与えられた祝福に感謝しよう。
②試練を経験する時も希望を仰いで歩もう。
■次回説教
聖書箇所 ローマ5:6~11
説教題 「大いなる喜び」
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