説教ノート No.38 2022.3.6
聖書箇所 使徒の働き21章17節~40節
■序 論
パウロにとってエルサレムへの道はまさに十字架の道であった。アガボの預言のとおり迫害の手が彼を待ちかまえていたのである。その道を前に向かって毅然と歩み続ける姿は、私たちの信仰に大切なことを問いかけていると言えよう。試練や危機は当座において人間の目に悲嘆の原因のように見える。しかし、そこには神の計画が隠されていることを見通す霊的視点を持ちたい。パウロにローマへの道が大きく開かれていく。
■本論1 再会の喜び (21:17-26)
エルサレムに到着したパウロ一行を教会の兄弟姉妹たちは歓迎した。喜びの再会である。そして、パウロは飢饉のために窮乏するエルサレム教会を支えて来たヤコブを訪ね、早速マケドニアの諸教会から預かった援助献金を渡し、異邦人世界で行われた救いの御業を報告した。この知らせに教会は大きな喜びを得たが、一つの気がかりがあった。それはユダヤ人クリスチャンの中にパウロを快く思わない者がおり、彼らがパウロについて「異邦社会のユダヤ人に律法を行うことを禁じている」と故意のうわさを流したため、混乱の心配があったのである。そこでパウロは、ヤコブや長老たちの勧めに従い、ナジル人の誓願に加わって誤解を解くことに努め、福音が律法そのものを否定するのではなく、キリスト者として生きるユダヤ人たちが、律法からの自由を得た者として、信仰の本質を失った律法主義に陥ることなく、旧約律法に明示された神の御心を大切にするようと勧めたのである。「ユダヤ人にはユダヤ人のように」というパウロの言葉には、ユダヤ民族としての誇りと、同胞への愛と配慮が込められていることを、私たちも学び、また習いたい。
■本論2 パウロ捕縛 (21:27-36)
パウロは教会内での混乱を未然に防ぐことができたが、思いもよらぬ所から攻撃の手が伸ばされた。アジア州エペソからペンテコステ(五旬節、律法授与記念日、収穫感謝祭)に都上りをしてエルサレムに入ったユダヤ人が憎しみに燃えてパウロを陥れようとしたのである。パウロがエペソ人トロフィモと同行したというだけで、「ギリシア人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所を汚しています。」と因縁をつけ、群衆を扇動して殺そうとしたのである。全くの言いがかりに他ならない。この混乱を聞いて駆けつけたローマの千人隊長は、市政の秩序を守る立場から正しい処置をするために事情聴取を行うが、扇動された群衆は「殺してしまえ」と叫んで聴く耳を持たない。これはまさに十字架直前の暗黒裁判で群衆が主イエスを罵倒した状況と同じである。この時、パウロは捕縛され二本の鎖で繋がれたが、彼の目には栄光の主イエスの御姿が見え、救いの確信はさら強固にされたことであろう。神の御業、救いの御業を鎖に縛りとどめることは決して出来ない。
■本論3 パウロの弁明 (21:37-40)
神の助けの御手は危機一髪のところで必ず差し出される。暴徒と化した群衆の手から、神はローマ駐留軍千人隊長の判断や、二本の鎖をも逆に用いてパウロの命を守られた。神の方法は人知をはるか越えたところにあり、その御業は最善、最適の時に成されるのである。パウロはここで千人隊長に話す許可を求めるが、彼がヘブル語でなくギリシア語で語ったため非常な驚きを与えることになった。千人隊長はパウロのことをエジプトの反乱者と間違えたのである。しかし、パウロは冷静に自ら生粋のユダヤ人であること、ローマの市民権を持つ者であることを告げ、自分に刃を向けるユダヤ人に自らの無罪を弁明する機会を願った。当時ローマの市民権を有する者は治外法権を有するローマ法によって身の安全が保護されていたが、パウロは自分の権利や無罪を主張するためにではなく、あくまでも十字架の救いを証しし、福音を弁明するために群衆の前に立とうとしたのである。私たちが救いの体験を語りキリストを証しするということは、福音の弁証家、弁明者となることである。そのために私たちは様々な人間関係において信頼される根拠を築く者でありたい。聖霊に信頼しつつ。
■結 論
神は主イエスの十字架によって人間に罪からの解放という「真の自由」を与えて下さった。この福音が提示される時、それを聴いた者の心に必ず自我の葛藤、良心と自意識との衝突が生じる。しかし、誰もエゴイズムの鎖を自ら解き放つことは出来ない。しかし、キリストの福音は人間の頑なな自我を打ち砕き、罪の縄目から解放し、魂の解放を得させることが出来る。私たちも恵みの信仰によって与えられた真の自由を謳歌しよう。
■御言葉に対する応答の祈り
①柔軟な状況判断の知恵が与えられるように。
②神に信頼して福音を語れるように。
■次回説教
聖書箇所 使徒の働き22:1~30
説教題 「事実の力」
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